月曜日, 4月 13, 2015

宮崎正弘の国際ニュース・早読み ( 中国、台湾のAIIB参加を拒否)

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「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 
平成27年(2015)4月14日(火曜日)
   通算第4514号  <特大号>
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 中国、台湾のAIIB加盟を拒否
  台湾では「瀕死の病人にカネを運ぶ馬鹿」と馬英九を批判
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 中国は12日、台湾が申請したAIIB(アジアインフラ投資銀行)への加盟を拒否すると発表した。

 馬英九政権の最後の賭けとみられたAIIB参加も、国名「中華民国」を最初から捨てて、チャイニーズタイペイなどと五輪方式で可能としてきただけに、国民党政権は当惑。しかし在野にあっては反対論が根強く、学生等が「死にたいにある回復見込みのない病人にカネを運ぶ馬鹿」と猛烈に反対運動が展開されてきた。

カネをむしり取られるだけとAIIB加盟には不満が強かっただけに、むしろ中国の決定に安堵した形となった。

 次期国民党の総統候補は朱文倫(新北市市長。国民党主席)の独走態勢にあるが、その朱は近く、北京を訪問することが決まっている。
その矢先の北京の決定は台湾国民党にとって強烈なブローとなったのではないか?

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西村眞悟の時事通信 西村眞悟の時事通信 西村眞悟の時事通信
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天皇皇后両陛下をペリリュー島でお迎えして       4月13日(月)
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天皇皇后両陛下は、四月八日、九日、パラオ国に行幸啓され、9日、同国ペリリュー島において同島の戦いで戦死した日米の将兵を慰霊された。
私は、同志七名と共に、ペリリュー島にて、天皇皇后両陛下をお迎えした。そのご報告をさせて戴く。
八日朝、単身、コロール島からボートでペリリュー島に渡った私は、先着の七名と合流し、まずペリリュー島の南に浮かぶ宇都宮歩兵第五十九聯隊に所属する千二百名の兵士が二万二千のアメリカ軍を迎えて戦った激戦地のアンガウル島に渡って、同島の戦没者に手を合わせ密林のなかに埋もれつつあるアンガウル神社に参った。
人気のない錆びた戦車が波に洗われている戦前からの埠頭から上陸してしばらく歩いていると、現地の人がいるので手を挙げて挨拶を交わした。
その人から水を売る家があると教えられた方向に歩いていると、ドアのないタイヤがつるつるの車に乗っている人と出会った。彼は、私たちが日本人であることを察して、三十分後に戻ってくるので島内を案内してやると言った。
戻ってきた彼に、ジャングルのなかの凹凸の激しい道を案内されて、樹木に覆われたアンガウル神社や避難壕、そして海岸に立つ「砲兵隊慰霊碑」や「しもつけ地蔵像」を訪れることができた。アンガウル島も玉砕の島であり、ペリリューからボートで南下して真っ青な海上から島に近づくと北端にぽつりとアメリカ人が立てた白いマリア像が建っている。
そのマリア像を左手に見てさらに南下して上陸した。
島内のアンガウル神社は、密林のなかに蔓で覆われた鳥居が建っていて左右に石の狛犬が残っているのを見つけた。拝殿はなく、そこに掲げられていた「アンガウル神社」と書いた額が草に覆われた地面に立てかけられていた。
昼食は「現地調達」でアンガウルに渡ったのだが、現地に食料はなく、幸い水のある家に見たこともない銘柄のビールも有ったので、それを昼食代わりにした。蛇特にまむしを見れば、食おうとヨダレを流して捕まえようとする奴が学生時代の山岳部にいた(実は私)のを思い出して、蛇を探したがいなかった。
その後、ペリリューに戻り、古いトタン屋根のガレージのような「食堂」で夕食を食べながら、翌九日に、両陛下を何処でお迎えするか、話し合った。

人口二万人余のパラオ共和国の警察は、ペリリュー島内にかなり厳しい規制線を引いていると教えられたからである。
我々は、まず両陛下の乗られたヘリが着陸する地点の近くと慰霊地の近くの二地点でお迎えし、離陸される地点近くに戻ってお見送りすることにした。
ペリリュー行幸啓の前日のこの日、一日中雨が断続的に降った。斜め前方が晴れた真っ青な空でも、いつの間にか真上に雨雲がきていて全身に雨に打たれる。

四月九日、本日は快晴で青い空がペリリューの上に限りなく広がっていた。
従って、戸外に出た瞬間、顔の皮膚がフライパンのように太陽に焼かれるのが分かった。八時四十五分、黒い背広に黒いネクタイをし、額に「七生(日の丸)報国」と書いた鉢巻きを締めて外に出た。その「七生報国」とまっ赤な日の丸を見て額に巻いたとき、文永の昔に、八十四騎で微笑みながら蒙古の大軍に突撃して玉砕した対馬の宗助國や、その六十年後に湊川で「七生報国」を誓ってからからと笑って自決した楠木正成ら、さらに微笑んで死んでいった大東亜戦争の無量の将兵ら、祖国日本の永遠を信じて国に殉じた多くの人々が、総て!
この陛下の来られるペリリューに集まってきているように思えた。
それ故、西に三十メートルほど歩いて木の枝をくぐって砂浜に出た。そして、海に向かって低く「海ゆかば」を歌った。
魂や髣髴として来たれ、と。
島の南の密林を出ると、ぱっと幅百メートルほどの今は使われていない古い滑走路跡が現れる。ここが陛下のヘリが離着陸される所だ。
雑草の上に俄にアスファルトを敷いたヘリポートが二カ所造られていた。その側に行こうとすると、海上保安庁の作業服を着た若者が離れてくれと要請してきた。そこで我々は密林の道に出てパラオの警察官が一人立っている十字路に出て、そこで両陛下をお迎えすることにした。ヘリポートから三百メートルほど離れた地点である。
約一時間、炎天下で待機した。お迎えする者、我ら八名以外になし。
轟音が聞こえてきて密林のなかから両陛下の乗られたヘリが現れ、午前九時五十四分、密林のなかに降りていった。

しばらくすると、密林に囲まれた道に、陛下の車列が現れ、超低速で走行してきた。両陛下は、車列の中程の中型バスに乗られていた。そのお車の右側に整列した我ら八人、頭を下げてお迎えした。お車は、我らの前でほとんど停車され、そして通り過ぎていかれた。
その車列に、しばらく頭を下げたままお見送りした。
そのとき、一人の声がした。
「皇后陛下と目が合った。すると急に、涙があふれたんや、不思議やなあ」

それから我らは、島の南端の慰霊地に入り、そこから三百メートルほど離れたパラオ警官が一人立っているT字路で、慰霊地に入られる両陛下をお待ちした。
十一時頃、陛下が通られた。皇后陛下は、バスのなかでほとんど立ち上がられて私たちに手を振られた。それから、約一時間、待機した。
その時我らは慰霊地から出られる陛下に万歳三唱をしてお見送りしようと申し合わせた。 何故なら、そこにも我ら八人以外誰もいなかったからだ。そして両陛下のバスが近づいたとき、元陸上自衛隊大佐殿が音頭をとり、我々は万歳三唱をした。もちろん、額には「七生報国」の鉢巻きをして。

頭を下げたまま万歳三唱はできないので、私は初めて顔を上げて両陛下を直視させて戴いた。陛下の何ともにこやかなお顔を拝してお元気そうなのに安心し、バスのなかで、ほぼ立ち上がってご会釈をされる皇后陛下のお姿に言いしれぬ感動を受けた。皇后陛下は、弟橘姫の生まれ変わりのようなお方だ。

思えば、衆議院の委員会委員長として国会の開会日に登院される陛下を、礼服を着て国会正面階段で度々お迎えしたが、五十センチほど前を通られる陛下に対して、こちらは頭を下げているのでお足やお手を拝しても、直に玉顔を拝したことはなかった。
両陛下は、それからアメリカ軍戦没者慰霊碑に参られた。その間に、我々は離陸地点近くの、先ほどの十字路に戻った。するとそこには、ペリリュー島に住む人々が集まってきていた。島の若い娘さんが、白地に赤い日の丸の日本国旗と青地に月の丸のパラオ国旗を配っていて、我々にもくれた。子供も大勢集まってきてはしゃいで遊んでいた。
島から離れられる両陛下のお見送りはペリリューの人々がする。従って我らは「七生報国」の鉢巻きを外した。

午後一時過ぎ頃、両陛下は、二百人ほどのペリリュー島のほぼすべての住民の見送りを丁寧に受けられて、ペリリュー島における総ての日程を終えられて、密林の向こうのヘリポートに向かっていかれた。その陛下の車列を数十人の島の子供達が走ってついて行く。
懐かしい私の子供の時の風景そのものだった。陛下のお車は、その子供達の足より少し速いだけだ。
十字路に一人立っているパラオの警官は、子供達が何処までもお車に付いて行くのを眺めて止めもしない。とうとう、子供達は、陛下の車列と共に、ヘリポートの方に消えていった。そして、しばらくすると、ヘリの翼が回転する音が聞こえだし、その回転音がひときわ大きくなってだんだん遠のいて行く。
このようにして、両陛下は島を離れ、帰国のチャーター機が待つコロールに帰っていかれた。

翌日、コロールに戻って先に帰国する同志を見送って独りになった私は、パラオに二十年以上住む四十歳代の青年から次のことを聞いた。
パラオは二十年前までアメリカ領だったので、天皇陛下の車は、セキュリティーの為に、アメリカ流に空港から晩餐会場まで、百二十キロの高速で突っ走るつもりだった。しかし、陛下は、それではいけない、沿道のパラオの人々と接しながら行きたい、と言われた。
それで、陛下のお車は、最徐行で進まれることになった。
これを聞いたとき、昨日の誰もいないペリリューのジャングルのなかの道を、最徐行で進まれる陛下の車列を思い出し、おもはず涙がにじんできた。
両陛下はたとえ誰もいなくとも、かつて一万一千の日本軍将兵が立て籠もったペリリュー島のジャングルを、あたかも、そこに将兵がいるかのように眺められてお通りになっていたのだ。そして誰もいないジャングルのなかの灼熱の道に立って、我々は両陛下をお迎えできた。

さて、天皇陛下の警備の問題やお召し艦の問題などは、他日触れることにして、本日は、次の一点を述べる。
天皇陛下の、パラオペリリュー行幸啓による戦没者慰霊を、単に、今上陛下御一代、御一人の、「慰霊がしたい」という思いから発したものとして軽く扱ってはならない。
戦後は、政治家やマスコミ人も、「開戦の詔書」を読まないから、ここが分からないのだ。
天皇は、国家と国民の為に「祈る御存在」である。よって陛下は、戦前戦後の揺るぎない連続性のなかで、万世一系の皇祚(くわうそ)を践(ふ)める国家の天皇としての「務め」を果たされる為にペリリューに赴かれたのだ。
即ち、次の命令を天皇が発し、その命令の下に、将兵はペリリュー・アンガウルで戦い玉砕した。従って天皇は、この度、ペリリューにおいて慰霊されたのだ。
ペリリューに押し寄せたアメリカ軍の第一海兵師団は、損耗六十%超に達して、「全滅」という異常な判定を受ける事態となり、アメリカは頑強な日本軍の抗戦に驚愕した。そして、その日本軍の精強の根源は、兵士の天皇への忠誠の故だと思い至り、ペリリュー島を「天皇の島」と呼ぶようになった。

このアメリカの判断は、正しい。ペリリューは、「天皇の島」であった。それ故、天皇は慰霊に赴かれたのだ。これは、国家に対する最深の公務である。
そしてこれほど尊い公務を成せる元首は、世界に天皇しか存在しない。この意味で、我が国は万邦無比である。
では、ペリリューが「天皇の島」となった所以は何か。それは、次の命令による(米国および英国に対する宣戦の詔書、昭和十六年十二月八日)。天皇は、この命令を発し、将兵は、この命令によって、よく交戦してペリリューを「天皇の島」にした。よって天皇は、「天皇の島」で将兵を慰霊するために行幸されたのだ。

天佑を保有し、万世一系の皇祚を践める大日本帝国天皇は、昭(あきらかに)に忠誠勇武なる汝有衆に示す。朕茲に米国および英国に対して戦いを宣す。朕が陸海将兵は、全力を奮って交戦に従事し、朕が百僚有司は、精励職務を奉公し、朕が衆庶は、各々其の本文を尽くし、億兆一心、国家の総力を挙げて、征戦の目的を達成するに遺算なからむことを期せよ。
  ○
お問い合わせ:西村眞悟事務所 TEL:072-277-4140 E-mail:sakaioffice@n-shingo.com
http://www.n-shingo.com/
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 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム 樋泉克夫のコラム  樋泉克夫のコラム
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樋泉克夫のコラム
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【知道中国 1228回】      
   ――「糞穢壘々トシテ大道ニ狼藉タリ」(小室5)
『第一遊清記』(小室信介 明治十八年 自由燈出版局)
 
  ▽
 清国政府の過度の自己チューぶりを、「外人ヲシテ皆ナ『斯ク迄ニハアラジト思ヒシニ』トノ慨嘆ヲ發セシムルバカリナリ」と評す。余ほど呆れ返ったようだ。小室は続ける。「予ガ北京ニ在リシ日」の10月16日、清国の軍機大臣等が「日本公使館ニ來リ我公使榎本武明君ト時事ヲ議」した。一行の1人が、清国政府がフランスとの交渉を断ち切って追撃の命令を下したことを「至極最良ノ國是ヲ取リタル者ト信ジ居」り、あまつさえ清国全土の「十八省皆焦土トナルモ目下ノ清國ニ於テハ戰爭ヲ利益トナスト迄斷言」している。
 
 彼らは「一定ノ見識」があったわけでも、確たる「廟算」があって「斷言」したわけでもない。「唯漠然タル空想ヨリ佛ト戰フト勝ツベキモノト妄信スルモノニ外ナラズ其ノ實状ヲ察スレバ憐レムベク笑フベク氣ノ毒千万ナルモノアルナリ蓋シ現今支那内閣ノ時勢ニ迂遠ニシテ下情ニ疎ナル?ハ譬へガタナキ景况」であり、外国人が聞いたら耳を疑うほど。この情況を小室は日本に譬え、維新前に京都の「公家方ガ何ノ辨別ノ根拠モナク單ニ攘夷々々ト唱ヘルモノヽ如キ有様ヨリモ尚甚シキ」ものだとした。
 
 古今東西を問わず王朝・国家の滅亡の後を辿れば、政府中枢は危機に対して茫然自失で現状糊塗。「徒ラニ太平ヲ装飾シ國勢ノ日ニ蹙ルヲ憂ヘザル」ものであり、こういった例は「就中支那?代ノ?史ニ於テハ其跡昭々タルモノナリ」。だから清国政府の現状からして、もはや政府の体をなしているわけではなく、「其衰運ニ傾キタルモノナリ」と。
 
貧すれば鈍すではないが、そうなって仕舞う背景は国の「上下懸隔言路壅塞シテ」、国が置かれている窮状・惨状を明確に冷静に上に伝え、上がその報告を正確に把握し、的確な判断を下さないからだ。国家危急の秋こそ、「上下懸隔言路壅塞シテ」はならないのだ。
 
ここで翻って昭和20年本土決戦に傾こうとした我が帝国陸海軍中枢における伝えられるところの内情を考えると、「唯漠然タル空想ヨリ・・・現今支那内閣ノ時勢ニ迂遠ニシテ下情ニ疎ナル?ハ譬へガタナキ景况」との一文には、深刻に考えさせられるものがある。やはり「外人ヲシテ皆ナ『斯ク迄ニハアラジト思ヒシニ』」であったのだろうか。「敵を撃滅し赫々たる戦果を挙げたり。我が軍の損害は軽微なり」との勇壮極まりない報告では、「唯漠然タル空想」と見られても致し方がないといったところだ。
 
さて清仏戦争に対する清国政府の対応に戻ると、台湾占領に向けて動き出したフランス軍の動きを在北京在外公館のなかで最も早くキャッチした日本公使館は、「隣国ノ好ミナレバ」と、その旨を清朝衙門(政府役所)に大至急で伝えた。すると衙門の「属吏ドモ之ヲ受付ズシテ曰ク今日ハ中秋ノ佳節ニテ朝廷ニテハ中秋ノ御宴ヲ催サレ親王大臣及ビ百官ハ御宴ニ陪席セラレタレバ當衙門ヘハ一人モ出頭セラルヽ人ナシ因テ受付ガタシ」と応じた。
 
日本側は「貴國ノ一大事ニテ一日片時ヲモ爭フ程ノ者ナレバ兎ニ角速ニ受取リテ之ヲ大臣」に伝えるよう申し出たが、「今日ノ御儀式ノ重ケレバ斯様ノ儀ハ受次難シトテ之ヲ拒絶」したとのことだ。
 
 後日談として、小室は清国軍機大臣と榎本武楊公使と面談の様子を綴っている。
 
台湾では「佛兵三百余人ヲ打取リタリ」と軍機大臣。これに対し榎本は、諸外国の公電でも日本側が把握したところでも「佛人ノ死傷ハ四五十人ニ過ギザル由」と伝え、貴方の情報の出所は、と。すると大臣は「台灣ノ劉銘傳ヨリ直ニ電報ヲ以テ我政府ニ報告ナシタル者ニテ確固タル説ナリト」。

じつは当時、台湾と大陸の間には電報施設がなかった。
そこで榎本は笑いを堪えながら、「何カ間違ヒナルベシ」と。
だが大臣は「劉銘傳ヨリ電信アリシニ相違ナシ」と譲らない。そこで従者が大臣に「台灣ニハ電線ハナカリケリ」と小声で伝えた。全く以て時代遅れで自己チューでマンガ・・・いや~アンタは偉いッ。
《QED》
         ○○○
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 書評 BOOKREVIEW しょひょう
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  キリスト教徒からみた或る三島由紀夫論
   自死の意味を真剣に見つめ直した日本のキリスト者たちの葛藤

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佐藤優著『イスラエルとユダヤに関するノート』(ミルトス刊)
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                        評 浅野正美


 五つの章に分かれた本書全体の主張は、わが国にとってイスラエルがいかに重要な国家であるかということで一貫している。第一章の「私とイスラエルについての考察ノート」から始まり、第二章「ロシアとイスラエルの考察ノート」、第三章「日本とイスラエルの考察ノート」第四章、「イラン、シリア、北朝鮮の考察ノート」と続き、最終章の第五章は、「キリスト教神学生への手紙」で結ばれている。

今回ここで取り上げるのは、この第五章である。この章は、著者の出身大学でもある同志社大学の神学生Q君と著者との往復書簡という形をとって書かれている。
著者の講演会に参加したQ君から、その際の質疑応答と、その後著者が隔月刊誌「みるとす」でこのときの内容に関連して書いた原稿に対して、「シオニズム」についてきちんと学びたいという長文のメールが届く。それに対して、著者は丁寧な返信を書いていくのだが、最初は神学やユダヤの本質を理解する上で必読の書籍を紹介したり、イスラエルに対して世界が抱いている誤解や偏見を正していったりするのだが、同志社の先輩「財津正彌」の著作である「キリストの火に 手島郁郎とその弟子たち」という書籍を紹介するくだりで、「三島由紀夫」について、深く洞察しているのである。

財津は三島由紀夫の自決に強い衝撃を受けるが、それは決して三島の死を肯定してのものではなかった。だが、精神的な葛藤と、恩師である財津正彌との対話を通して、その思いは魂の次元にまで昇華していく。財津は当初、三島の死を個人的な美学の問題として捉えていた。
文学者志望だった財津の妻の弟も、21歳のときに、自ら命を絶っていた。 
「美を文学で極限まで追求してやまなかった義弟は、珠玉の文字を書き連ねて文学美を追求していたが、人間が生きていくということは、純粋に美の追求に徹し抜こうと努めても、それには限度があり、結局生きるということは妥協を続けて自分を醜にさらしてゆくことにほかならず、そんなことは自分にはできぬと結論し、自分の生涯の絶頂は今だ、と自覚したそのときに、美しい極みの文章だけを残し、自ら自分の生涯を絶っていったのだった。」

美学と死の問題について考えた財津は、そこに悪魔的なものを感じ、三島の自決に否定的な評価をした。財津は翌日の感話でこう語りかける。
「三島の場合、私がどうしても許せないことがあった。この重大事件決行の一ヶ月前に東部百貨店で《三島由紀夫展》なるものを開き、その入り口に、彼がボディー・ビルで鍛えた豪華な裸体で見事な居合いの切捨ての一瞬をとらえた大写しの写真とその刀―それはそれから一ヶ月後に彼の首を介錯するために使用されることになっていた銘刀「関の孫六」―その二つのものを「これを見よ!」とばかりに飾りつけ、三島は何も知らずにこの展示会場に入場してくるすべての者にそれを見せつけ、やがてすぐ、その刀を使って自決を遂げていったのだった。私は、こういう芝居じみたことがいただけなかった」

ただし一方では「自分の命までたたきつけて叫んだ壮挙には、もっと威儀を正して注目すべきであって、美学の範囲に話を絞り込んだのでは、大事な問題をとらえ損なうのではないのかと、自分のなかに異を唱えるもう一つの自分もあった」
この話を聞いた手島が、財津にこう語りかける。
「財津君は三島の死は狂死というが、だらけた日本を嘆いての憤死ではなかったのか、また諫死ではないのか。演技的行動をやってのけたからといって、それを単なる狂気と言い捨ててよいものか、どうか。」 

▼狂わないような人間は駄目だ

さらに手島は翌週の聖日集会において、「愛に生き狂う生涯」と題して強烈に叫んだ。
「Zくんは『滅びの美学』だと言いますが、(中略)人間が自分で死ぬということは大変なことです」         

「三島由紀夫は『狂わないような人間は駄目だ』と言っているけれども、私もそうです。(中略)すべてを捨てて伝導に没頭しようとするのは、神の愛が私を狂わしめるんです」
「人間の死をもって訴える訴えは、大きい力を持っています。日本には昔から諌死ということがある。誰かの心を諫めるために死ぬ。(中略)今の時代に死をもって訴えたということは、ただでは終わらないと思う」
「私をファッショだと言って笑うなら笑え。そのくらいのことは平気です。もっと日本人の精神が復興することの方が大事だと思うからです」

これを聴いた財津は、当該書においてこう書いている。
「先生の叫びはこうだー神を知らぬ三島でさえ、戦後の日本が経済繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、自ら魂の空白に落ち込み、国家百年の大計は外国に委ね、日本人自ら日本の歴史と伝統を涜している現状を見るに忍びず、自衛隊の胸を揺さぶり、共に義のために立ち、日本を真の日本の姿に取り戻すために共に死のうと腹をかき切って死んでいったのだ。私はこの男は偉かったなあと思う・・・・・」
あれから四十年、先生は今なお私に問い続けている。
「財津くん、違うかね」と。

▼命より大事なものがある


この後著者は、キリスト教における殉教に触れ、「プラハの春」の際にソ連軍の軍事侵攻に抗議して自殺した大学生、ヤン・パラフと三島の死に通底する価値について語る。それは二人が共に、命よりも大切な価値があるということを身をもって示したことであった。
 その後、財津と手島は「演技」と「象徴的行為」に関して次のようなやりとりを行う。手島から、「君はなぜあんなにむきになって三島にかみついたんだい?」と問われた財津は、「彼の《演技》というのに引っかかっていました」と答える。それに対して手島は、演技が悪いとは一概に思わないといってキリストの例を持ち出して語る。

「イエス様だって死をかけてエルサレムに入場されるとき、子ろばに乗って行かれたじゃないか。あれは、きみ、イエス様はゼカリヤ書に書いてあるシナリオどおりに演技されたのだよ・・・・・。だがね、これを演技と言ってしまったんでは、身も蓋もなくなってしまうんだよなあ。こういうのを宗教では『象徴的行為』というんだ」それを聞いた財津は「一片の鱗が私の目から落ちたのだ」と書いている。

三島の死については自決直後から、真相はこうだとばかりに、夥しい人間がその理由を解釈してみせた。だが、死をもって訴えたという事実と重さを前にしては、どんな解釈も取るに足らないもののように思われた。死という厳然たる事実の前には、いかなる言論も軽い。

あの当時三島の死を巡って、キリスト教の一部とはいえ、このような深い思索と葛藤があったことを私は本書を通じて初めて知った。したり顔で解説する識者と較べて、どちらが三島の死を真剣に受けとめていたかということは言うまでもない。

私が本書の中で特に印象に残っているのは、プラハの大学生、ヤン・パラフと三島の死に共通する、生命以上の価値の所在を身を挺して示したその行動のことであった。私事だが、東欧諸国が自由化されて、だれでもビザが取れるようになって間もなく、私もプラハのバーツラフ広場を訪ねたことがあった。念頭には三島の自決があった。二人の死は、同じ情念の線に繋がっているとしか思えなかったからだ。その後、89年の東欧革命や天安門事件においても、祖国を救うために実に多くの命が失われていった。それらの時、なぜ人々は日常の生活を捨ててまで、巨大なものに立ち向かっていったのであろうか。

▼民族と祖国のために自己犠牲となる精神


本書において、「民族と祖国のための自己犠牲の死」と書かれているように、人は時として自己の利害を超えて、崇高なるもののために命を投げ出すことがある。それは、祖国の歴史と文化に対する民族としての使命、つまり過去から現在へと繋がって今自分が立っている時点における責務を果たすことで、国家と民族の正当性を永続させる営為ではないかと思う。
三島の思想や天皇観について、それが一神教的であると指摘する人がいる。三島の文章や行動が、唯一絶対者への帰依に通ずるということであろうか。そのことについて、私の理解は及ばない。三島は文化防衛論において、天皇についてこのように書いている。
「文化の反独創性の極、古典主義の極地の秘庫である天皇」
 文化はその連続性を維持していくことによって、みやびの源流である古代天皇のはるか向こうに霞渡る共同体の神々との繋がりを保ち続けるだろう。昭和45年、三島の自決を受けたキリスト者が、かくも深く思い悩んだのも、三島のこうした思想を通走低音として、共鳴し合ったからではないかと思う。
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読者の声 どくしゃのこえ READERS‘ OPINIONS 読者之声
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(読者の声1)貴誌前号でもあったチョン書記長(ベトナム)と習主席(シナ)の会合ですが、越国民の間にはさまざまな噂が流れています。
その一つは「ベトナムはシナに島々を売った」というものです。ここ数週間、ベトナムのマスコミは親シナ情報を流し続け、テレビでは親シナ映画が放映されています。ベトナム人の間では、真偽は不明ですが、政府高官が腐敗し、シナ側からの賄賂で島々を売ることで合意したといった噂が流れています。
http://www.nikkei.com/article/DGXMZO85428750Y5A400C1000000/

4月30日は南部解放記念日の40周年祝日です。ハノイでは5ヶ所で花火が打ち上げられる予定ですが、もしこれが事実なら哀しいですね。
ヒラリーをはじめ、多くの議員にシナはロビー活動をしているようですが、日本においても凄まじい情報活動がきっとあるのでしょうね。グエン・フー・チョン書記長の米国訪問はどうなるのか。
  (R生、ハノイ)


(宮崎正弘のコメント)一昨年の花火大会、ホーチミンのマジェスティックホテルの屋上から観ました。たった5分の花火大会なのに、数十万の人出があり、いかにベトナムでは、ほかの娯楽がないかが分かります。
噂というのは、中国や、嘗てのロシアがそうであったように、ベトナム人の娯楽のひとつかとも思います。
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<宮崎正弘の対談シリーズ>
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宮崎正弘 v 小川榮太郎『保守の原点』(海竜社。1620円)
宮崎正弘 v 大竹慎一『中国崩壊で日本はこうなる』(1512円。徳間書店)
宮崎正弘 v 室谷克実『仲良く自滅する中国と韓国』(徳間書店)
宮崎正弘 v 川口マーン惠美『なぜ中国人とドイツ人は馬が合うのか?』(ワック)
宮崎正弘 v 石平『2015年 中国の真実―中国は習近平に潰される』(ワック)
宮崎正弘 v 西部遇『日米安保五十年』(海竜社)
宮崎正弘 v 佐藤優『猛毒国家に囲まれた日本』(海竜社)
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宮崎正弘のホームページ http://miyazaki.xii.jp/
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(C)有限会社宮崎正弘事務所 2015 ◎転送自由。転載の場合、出典を明示
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