月曜日, 7月 06, 2009



この前は、逆問題についての古典的参考書として、岡本良夫氏の『逆問題とその解き方』をとりあげた。ここでは、同様な書籍であるが、逆問題の包括的な入門書として、初心者から上級者までを含めての教科書的著作、久保司郎氏の『逆問題』を引き続き取り上げた。

岡本氏の扱う逆問題は、主として医学系の画像処理問題に特化した側面を持ち、専門外の方がみたら、まさに参考にはなるけれえど、ここまで行列や数式が出てくると、ちょっと近づきがたい方もおれれるのでは、という類いの本であろう。

久保司郎氏の『逆問題』は、計算力学とCAEシリーズとして、有限要素法からはじまるシリーズの第10冊目にあたり、やはり1992年5月に初版が出ている。当事の値段は、4900円であった。現在、ネットでみて改めて驚いたのであるが、古本としての価格は20000円からとなっていて、在庫は少ないようである。ここでもほぼ4倍の価格と言う点で共通している。
http://www.amazon.co.jp/%E9%80%86%E5%95%8F%E9%A1%8C-%E8%A8%88%E7%AE%97%E5%8A%9B%E5%AD%A6%E3%81%A8CAE%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA-%E4%B9%85%E4%BF%9D-%E5%8F%B8%E9%83%8E/dp/4563033855

『逆問題とは、結果から原因を推定する順問題の逆命題をなすものであり、いろいろな分野でほぼ同時期に研究が進められている学際的な領域といえる。本書は、分野ごとに詳細は異なっている逆問題の共通の性格に着目し、定義から解析法、適用例までを解説した・・・』とあるように、文化的領域をも含む広範囲にわたる問題である、という位置づけが数学・工学専門でない小生にとっては、たいへん意義遣い教科書となった思い出ふかい本、といった感じである。
ネットでみたら、逆問題と逆解析というところに、あれ、どこかで見た図と似ていると思ったら、それもそのはず、久保博士その方の解説でありました。
http://www-saos.mech.eng.osaka-u.ac.jp/research/inverse.html
この本の出版は1992であったが、私が購入したのは、二年後の5月30日となっている。

1.6 逆問題の意味と重要性

のおわりに、『逆問題は、物理的因果律を遡及するものであり、この点から逆問題志向は科学とは相容れないとも考えられるかもしれない。しかし、科学の発展の歴史は、逆問題と大きくかかわっている。天体運行に関するケプラーの法則、電磁場に関するマックスウェルの方程式などを観察や測定の結果と思索より導く過程は、逆問題の壮大な典型であろう。逆説的に言えば、逆問題的アプローチがあってはじめて順解析が可能となるのである。』と書かれている。

それなら、ニュートンの万有引力の発見と定式化だった、そうでしょうね。リンゴが木から落ちる、あたりが結果で、そこから壮大な理論体系へと発展した。ケプラーの法則は、当然知り得ていたろうし、....。

http://www.taishitsu.or.jp/yasoji/yasoji15.html
八十路からの健康談義では、『これを難しい言葉では逆問題と言います。これと反対にものが順問題です。順とか逆というのは、科学者がつけた言葉で、順 ... 逆問題では結果から原因を探ることになります。科学者は順を重んじますが、一般の人は実は大抵逆問題をといているのです。 ...』などとあり、一般の人は実は大抵逆問題を解いている、などとある。

http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~saiton/paper/inverse.htm
逆問題と認識論では、『数学的知性とは別の知性』の項で、『そして、科学の正しさとか、厳密さが論じられるときには、順問題的思考が主流になっている。そして、それに対して逆問題的思考が存在するということは、大きなインパクトを持っているのである。そして、逆問題的思考は、日常生活によく見いだされるとすると、基本的な対比は、日常的認識と科学的認識との対比になる。普通の意味で、証明ができ、数学ができる人はエライけれども、それとは違ったタイプの知性が必要だということも、逆問題的思考は教えてくれる。

そして、単なる対比にとどまらず、逆問題が数学的に扱えるところから見ても、日常的思考は単なるカンのような低次の知性と見なされるべきではなく、順問題的思考と並ぶべき知性の一種と見るべきである。これが逆問題の数学的、工学的扱いの哲学的意義である。』などと書かれ、単に数学的知性だけでは解決できない問題が日常茶飯に山ほどあることを示唆している。
しかし、私は、『逆問題的思考は、日常生活によく見いだされるとすると、基本的な対比は、日常的認識と科学的認識との対比になる。普通の意味で、証明ができ、数学ができる人はエライけれども、それとは違ったタイプの知性が必要だということも、逆問題的思考は教えてくれる。』なる箇所で違和感を覚える。たしかに、逆問題解決には、フェルマーの定理の解決のような強度の数学的天才を必要としないだろうけれど、久保博士の指摘するように、科学の根幹に横たわる広大な未解決領域のように思え、(それが、日常的な問題とは無関係であったとしても)数学的知性とはちがった知性とはいかなる知性を意味しているのか計りかねた。筆者が社会学部の先生と言うことも、数学の専門家では、おそらくなくて、文脈上の造語的に数学的知性と対比される日常的さまざまの生活的英知とでもいうような意味につかわれたのだろうか。むしろ、私は、重婚罪問題は帰納的、逆問題は演繹的ととらえたい。数学では、両者が存在して発展すると信じているし。

卑近な例でいえば、車の燃費の改良を考えるのも逆問題的といえるだろう。燃料の質がきまり、車種が決まり、操縦者と走路がきまると、だいたい固有の結果がえられる。この値を、もっとよくするために、オイルの質を変えたり、点火の具合を変えたりして、結果を見る。そして、さらにどの入力が制御しやすいかを推測して、それを変える方策をとり、燃費改善につなげて行くなどというのは、結果から、燃費の良否に関する逆問題を解いているということと同義だろう。


なかのひと

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