金曜日, 10月 31, 2008



「ノモンハン事件の真相と成果」ーソ連軍撃破の記録ー(小田洋太郎・田端 元 著)有朋書院、2002の後、2004年11月に発行された。

その頃すでに「ノモンハン事件の真相と成果」を2年前にあらかた読んでしまっていたので、こういう書籍が出てきた背景に、やはり2年前の衝撃的な著作の影響が大きかったのだろうと思った。それで、いままで、本棚の隅で眠っていた。まだ、あまり読んでおらず、今後の課題となっている。

一口にノモンハン事件といっても、簡単ではなく、今後折りにふれて、日本人を考える際にその都度、振り返る戦いだろうと、小室直樹博士の提言の意味を考えている。

司馬氏の著作を全面的に引用されていたある大学の先生は、この翌年の年賀状で、ノモンハン事件の通説は、かなり修正されるようですね、という意味の添え書きがあった。学者の良心を感じた。・・・ ・・・

『革命干渉で思い出すのは、ノモンハンにおける日ソ戦車隊の会戦である。日本軍の戦車は上品だが、花車(きゃしゃ)に出来ていて、打ち出す弾丸もほとんど命中するが、ソ連の戦車に対しては、ぼた餅を当てた程度の効果しかなかった。これに反し、ソ連の戦車は雑であるが、頑丈に出来ていて、撃ち出す弾丸はめったに当たらぬが、日本軍の戦車に当たったら最後、木っ端みじんにしてしまった。日本軍の戦車隊長は精神に異常を来したと伝えられている。日本軍の統帥者が、この第1線の犠牲を教訓とせずに、参謀共の空論に乗って、次第に戦争にのめりこんで行かれたのは残念である。』
とされていた。

コンピュータで、数値計算をする場合の基礎となっている、逐次近似法(反復法)の数理概念を説明する際の余談として紹介された。大砲の着弾点をそれまで、逐次近似的に修正していたのを、ナポレオンが旧法を破り、精密な弾道計算で砲撃し、フランス革命を英軍の干渉より守った・・・などとこの前に書かれている。

「ノモンハン事件の真相と成果」が出るまでは、おおかたの日本人のノモンハン事件に対する見解は、上に上げたような日本軍が無謀な戦いで大敗した・・・程度のものだったかもしれない。

特に戦車戦においては、圧倒的に敵戦車が優勢だったことを疑う根拠は皆無だった。ところが、この本によると、ソ連は装甲などの厚みも倍以上に膨らませて発表。著者らが、実際に戦場に残されたソ連戦車の残骸を実測すると、せいぜい最高でも25ミリ程度の装甲しかなかったそうである。戦車でないいわゆる装甲車といわれるものも、ブリキ缶同然で、信管が作動しないほど装甲がうすく、機関銃で簡単に貫通してしまうほどであった、という。その写真もあるが、あきれるほど、大小さまざまな穴があいている。

たしかに日本軍の戦車は小型で、砲身も小さいが、戦車戦を想定しない、歩兵援護の目的であったからやむを得ない側面もあるが、敵の砲弾があたっても、木っ端みじんなどということはなく、走行不能戦車は29両のみで、虎の子の戦車なので、皆牽引して本土で補修するために持って帰っていて、現地の破壊車両はソ連側のみという。

しかも日本軍には、37ミリの対戦車砲を多数擁しており、これは距離1キロでも55ミリほどの装甲を貫通できる能力があり、その半分ほどの装甲の厚みのソ連戦車は、射程1キロ以下ではめではない相手だった、という。ほぼ100発100中。トラックに後ろ向きに積んで、相手はトラックと思って油断すると、一発で戦車は炎上した、という。しかもソ連戦車は走行中の発砲は当時出来ずに、必ず止まってから砲撃したので、そこを狙われたという。(日本戦車は走行射撃もできた)。

最近読み返して見て、戦場で、日本軍の司令官たちが、フォードの高級車で戦場から離脱する際に、相手戦車に察知され、追走を受けた。草原といっても凹凸がけっこうあり、速度をだせないうちに、敵戦車が後ろから迫ってくる。それを見ていた、37ミリの速射砲をもつ日本軍が、下手をすると司令官を誤射しかねない、15メートルまで後ろにせまる戦車を狙ってうったら、命中し、戦車は炎上した、という。当然司令官は逃げ切れた。命中率がいかによかったか、これで相手が静止したら、100発95中ぐらいは確実だったろうと思った。

以下は、一部重複する部分もあるが、当時の読後メモである。

ノモンハン事件でソ連側は、ソ連の損害9284名、日本側の損害は52000—55000と発表したため、日本軍の大敗と信じられたが(当時の日本軍の参戦者は約3万以下で5万もの損害は出るわけはない。これはスターリンの粛正を恐れたソ連の将軍たちが、誇大の勝利と過小の損害を申告し、常に実数の2〜3倍の戦果を報告したからである、という。

最近のロシア側の資料によると、日本軍戦死8741名、負傷8664名、ソ連側はというと、戦死9703名、負傷15952名(モスクワ軍事出版社1998年)となるという。情報公開が進むと、ソ連側の死傷者数はさらにふえるだろう、とロシア側もみとめているそうな。日本軍の旁受電によると、ソ連の損害は甚大でバイカル湖以東の病院は負傷者の治療で忙殺され、西行きシベリア鉄道には、患者が満載というありさまだった、という。「患者は3万5千〜4万だったと考えられる」(「ノモンハンの真相」戦車第四連隊長玉田美郎氏」辻正信参謀も、傍受電で損害の甚大なことを中央部に訴えており・・・と書いている。戦死者をいれると5万名以上になる。

この損害に耐えかねて、8月15日にソ連はドイツ大使に仲介を打診し、ソ連が避けていた独ソ不可侵条約を提案した。8月23日、条約締結。日本を驚かせたが、スターリンはリッペントロップ(ドイツの外相)に対日関係を好転させたいから、ドイツの援助をたのみこんだという。(欧州情勢は複雑怪奇なり、とこの条約で、平沼内閣は総辞職しましたが、何のことはない、日本自身が主役だったわけで、この辺が幕末以来、西洋人に手玉にとられた国際情勢音痴の日本人の特質と小生は見ます。幕末、すでに外人によって、地球の裏側のささいなできごともまわりまわって、反対側にまで波及する、ということが日本人は理解できないと指摘されている)

関東軍は当然反撃の軍を用意したが、中央はソ連からの停戦申し込みであることを隠して交渉した。事情を知っていれば、関東軍は停戦に応じなかったといわれる。とにかく反対する関東軍(何故関東軍とよばれるか、ご存じですよね)を大命として強引に停戦させ、復讐を期した将兵は残念がった。ちゃんと、シビリアンコントロールされている。

ノモンハンでのソ連の越境に対して、当初外蒙兵1000名ほどと思った日本側は、小松原師団長の一師団で対処して(寄せ集め部隊だったそうです)いて、相手にこれだけの戦果をあげたことを、今まで完全に忘却していました。そして、本格的反抗として10個師団用意したところで、ソ連側は恐れて停戦。それを知らないから、たとえばネットでノモンハンを調べると、二番めに日本を思い切りののしることばが日本人によって、書かれている。

「生前、司馬遼太郎氏が「ノモンハンのことを考えると頭の血が沸騰し、逆流してとても平静ではいられなくなる」と語っていたのを私はテレビでみました」、というまじめそうな平均的現代人らしい人が述べています。

「ただし、事件というにはあまりに規模が巨大であり、現在のロシアやモンゴル側が「ハルハ河戦争」と呼んでいるように、それはまさしく本格的な近代戦でした」(宣戦布告なしなので、日本側は事件とよび、戦争よばわりは、不適切であるが向こうにしてみれば、まさに戦争だったわけで、現在あちらの集結した戦力は20万以上と見積もられている。)

なぜ、ソ連が外蒙兵といっしょにでてきたのかも、この本で了解。衛星国(といえばきこえはよいが、要するに植民地)としてのモンゴルが中国支配に苦しんだ後ソ連が手に入れたが、政権が親日的で、いろいろな反乱がおき、ソ連指導部が、ゾルゲの通報で知った日本軍の侵攻意図がないことを確かめるべく、日本軍がモンゴル国内に進入したという既成事実を捏造し、モンゴルに本格介入する口実つくりのため、暫定的に定められていた国境線を関東軍側に20キロほど移動しようとしたことが発端だという。こんなに明快なことが、戦後はわからなくなってしまった。昭和13年にはハルハ河をわたって、粛正におびえたソ連軍の大将のひとりが日本に亡命もしているし、ハルハ戦争を指揮したジューコフも粛正リストにあがっていた。

ゾルゲも使命を果たした後、モスクワに帰れば良いのに、元帥クラスまで6割も粛正されてしまったので、帰れなくて特高に逮捕されてしまった。ジューコフは、レニングラード、ベルリン侵攻と対独戦で勝利し、英雄になりましたが、戦後西側のインタビューで、もっとも苦しかった戦争はと訊かれて、ハルハと答え、周囲を唖然とさせたらしい。(著者たちが、アメリカのミシガン大学ハケット教授から聞いたいた話し)。当時のパイロットを祖父にもつ方が書かれた「瑠璃の翼」でも、だれいうとなく、ジューコフはハルハのスターリンとあだ名されていたらしい。日本軍との対戦がいやで、自損事故を申請した者は、銃殺、財産没収などしないと、後をたたないありさまであったようだ。辻参謀の記述も誇張ではないようだ。

ネットでの批判では、「歴史的な事実は、ソ連軍が周到な準備と速やかな兵站計画を展開下したのに対し、準備不足の上に場当たり的な行動を展開しつづけたのは日本軍であり、戦略上(書いた本人はわかっているのかね)の優勢をたもちながら機動力を駆使してたたかったソ連軍にたいし、防御力も攻撃力も劣る武器(数値情の性能比較ではその通りらしい、ただし航空機は圧倒的に日本が上。日本機は超超ジュラルミン、相手は、木製、布バリ機まであった。)を用い、当初はきわめて勇猛果敢に戦いながらも、ついに精神論に支えられた凄惨な白兵突撃と玉砕を重ねるしかなかったのは、日本軍のほうなのです」とまるで、東京裁判史観そのもの。

具体例をいくつか。
日本兵士は皆目的意識をもって戦ったが、ソ連運が戦車の天蓋に外から鍵をかけ、(モンゴル兵ののる戦車)操縦者を鎖で車内に繋いでいた。退却する者は、射殺したり焼き殺したり(火炎放射器がすでにあった)し、内務省軍が督戦隊としてモンゴル人民を隷属部隊とし、中京軍との戦いでは米国製の機関銃が焼けて使用不能になるほどであった。(父親の見聞談では、中国軍も、機関銃手がにげられないよう、鎖で足を繋がれていて、普通はこのくらいで向こうは退却するはずと言う場合は、皆そうであったそうだ)。

速やかな兵站計画とありますが、ソ連捕虜の話では蒸したジャガイモ数個が与えられただけだそうで、それもひどいときは3〜4日に一回だった。

劣性な武器 司馬さんは戦車兵だったから、戦車の戦力差は圧倒的だったというから皆だまされてしまった。それまで、日本軍の戦車は、歩兵の補助という観点から対戦車戦など想定しておらす、砲もわざと速度の遅い小さい砲を積んでいた。しかし、速射砲という対戦車専門の砲が多数あり、日本兵の練度は高いので、1000メートル以内であれば、百発百中でおもしろいようにソ連戦車は燃え上がったという。

日本軍はソ連戦車・装甲車を7月の左岸作戦で、430台以上を破壊した。(ソ連側は配備した数字を446台としているので、96%以上の破壊率である。トータルの戦果はソ連側800台以上。対する日本は、29台の損害。ソ連の装甲車にいたっては、フォード製で、機関銃でブスブス貫通した。今日でも小口径火器で穴のあいたソ連戦車や装甲車が放置されているが、朝日グラフ(H11)ではソ連製との断りがなく、日本軍戦車とデタラメなことを書いている。著者らが現地で確認。
ソ連には当時、近代装備がなかった。防弾綱板も自国製がなく、イギリスの造船所が軍縮で捨てた綱板を買って戦車にはったものである。

ソ連軍戦車は走行しながら射撃をする技術がなく、射撃するためには停止したので、そこを日本軍に砲撃されて破壊された。日本戦車は走行射撃ができるので、7月4日の戦車戦では、12台の敵戦車を破壊し、敵は退却した。このとき、日本側の損害0。ソ連戦車の大砲は砲身もながく、威力も大きいが、命中率が極端に悪く、偶然にあたる程度では数字上の性能の2割ぐらいと見積もられている。
 砲兵の技量も日本を100点として20点台ぐらい、大砲の着弾点をしらべる観測者も必ず赤い馬に乗っていたり、羊の皮をかぶって羊群にまぎれこんだりと、およそ近代的とはいえず、日本兵に笑われていたという。大砲弾も鋳鉄で不発弾が多く、爆発しても地上45度以上にしか被害を与えず、50〜60メートルも離れれば、破片が飛んできても棒で殴られた程度(破片が細かくならず、空気抵抗が大きいうえに、火薬の質もわるかったらしい)
で大助かりだった。日本の砲弾は、地上25度以上に被害を与え、鋼鉄製なので、細かな破片として散乱し、相手を苦しめた。

火炎ビンの発明も日本兵で、ガソリンを積んだトラックがソ連戦車に追走されたとき、荷台のガソリン缶がひとつころがり落ちた。それをソ連戦車が踏みつぶしたところ炎上してしまった。ソ連軍戦車は、火炎瓶攻撃がなぜかわからず、日本兵が近づくと炎上するので、新兵器出現とおびえたらしい。また、トラックに37ミリ速射砲を後ろ向きに積んで、逃げるとき近づいた戦車に発砲すると、内部で爆発する。この戦法は、スペイン内戦が最初らしいが。

「打ち合うとソ連兵は逃げますが、逃げないので、オーイ日本軍か?日本軍だ!といっているうちにソ連軍に分かったらしく、夜間なのに攻撃してきました。戦車もいましたが、夜は戦車はこわくありません。火炎瓶一本で燃えちゃうんですよ。我々は、薄暗いから隠れてずーといって、火炎瓶やっちゃパーと隠れるんです。何台かやりましたね。・・・・」(宮本孝太郎上等兵)

航空戦

NHKは日本機が多いので優勢だったと報道したが、間違いである。
戦果 ソ連機 1464機を撃墜、爆砕
   日本機 不明
しかし、緒戦の三日で5機撃墜、次の6日で175機を撃墜し、日本側の損害
は7機という記録はある。これに恐慌をきたしたソ連側は飛行禁止令をだしたそうな。日本側戦闘機は97式(皇紀2597年、1937年)で、東大出の糸川博士が開発したもの。高速ながら旋回性がすぐれ、旋回半径は78〜86メートル、これは英国やドイツ機の110〜140メートルより優秀である。(しかし、操縦席後ろに張る防御鉄板はなかった。通常50キロ前後という。他国の旋回性能は二人乗り相当のハンディがある数字だろう。)

19歳の日本側パイロットの話では1旋回半でソ連機の真後ろに追尾することができました、とある。全速で逃げる敵に向かって、攻撃側は機銃を打つ間は直線的に飛ばないと、弾丸は真っ直ぐ飛ばないそうで、旋回中に打つと、小便弾といって、放物線を描いてしまう。

撃墜王の誕生。このノモンハン航空戦で日本からは篠原少尉が57機撃墜の撃墜王となり、3ヶ月でのこの数字は第二次世界大戦でも破られていないと言う。ただし、少尉は戦死(一説に、尾翼が折れ、不時着時に死亡と軍医の所見ありとの説)二桁撃墜のパイロットがぞろぞろいたという。中には軽爆撃機で空中旋回して敵機を撃墜したものもおり、ソ連側はあわてて逃げたという。なお、満州国を英米は承認しなかったが、ソ連は承認したし、十数カ国が承認あるいは追認していたそうな。(その後、イギリスは満州国を国際認知させ、ユダヤ人入植も視野にいれていた、と最近知ったが、日本海軍の中国本土爆撃で、空気が変わってしまった、という。)

悲惨なソ連兵士

むしろ悲惨なのは赤軍兵士であった。畑にいたのを拉致されて、兵士にされ、彼らは全く戦意がなく、戦争目的もなく、格闘術も知らず、銃と手榴弾を渡され、演習と称して前線に連れてこられ、内務省軍の監視下、前進させられた。接近して手榴弾を投げるだけの歩兵で、反乱をおそれ、銃弾はもたされなかった。日ソ双方が接近して、手榴弾を投げ合っているとき、日本兵の少数が仁王立ちで軽機関銃を抱えて立ち上がり、撃ちまくったら皆殺されるか逃げたという。

銃剣術はしらず、日本兵が突撃すると、皆泣きながら逃げたという。あまり逃げすぎると内務省の軍に撃たれ、火炎放射器で焼かれた。戦車からも監視されていたので、戦車がやられると、皆逃げたという。8月20日以降、戦場にパン配給車が登場し、日本軍に捕獲されたりしているところをみると、それまで、欠配だったのだろうとしている。戦車は外側から鍵をかけられ、逃げられなかった。戦車内で自決したものも多かったそうである(たぶん、死の苦しみから逃れるため)。(「瑠璃の翼」にも出てくる。平行して進行してきた三台の戦車のうち中央の一台を撃ったら、炎上してまわりの2台も停止したまま動かない。そのうち両側の2台も少し揺れた。おかしいとおもって砲塔にのると外から鍵がかけられていて、中の三名は延焼して焼け死ぬのをおそれ、すでに手りゅう弾で自決していた、という。)

逃げ遅れた歩兵は戦場に放置されたまま、日本兵に刺殺された。戦場に放置された負傷した歩兵は大声で泣き、日本兵に不思議がられているが、拉致されいやいや戦場に連れてこられ、死にいたる痛い目にあったのでは、スターリンを恨むしかなく、泣くのは当然だった。

ソ連軍は人命を何とも思っていなかった。

国境の河をわたってきたソ連軍を撃退したところ、高台にいたソ連軍は退却してくる味方の部隊を火炎放射器で焼き払ってしまった実見談がある(真説ノモンハン空戦記)

辻正信(ノモンハン秘史)や三田真弘(ノモンハンの死闘)その他の著書に、「破壊された装甲車を見ると、外蒙兵が足首を鎖で縛られ逃げられない状態だった。」
「外蒙兵は高い木の上に縛られ、葉のしげみから小銃を撃ってきた。」
「ソ連軍は戦車に鍵をかけ逃げられないようにしていた」
「蒙古ラマ僧侶にも銃を持たせていた」
「退却しても、5、6百メートル手前で止まった。督戦隊がいたのであろう。」
などとある。

スラブ民族はのスラブは、slave(奴隷)と似ているなと学生の頃思ったことがあるが、昔からスラブ民族は周辺から奴隷として使用されてきて、言語学的にも関連があるとのはなしをどこかで読んだ。

トルストイ氏はソ連の生産性の原点は囚人で、虐待から死亡者が多いので、常に供給が必要で、そのため国内はもちろん占領地からも多数を連行した。つまり、ソ連は奴隷制経済の段階であった。マルクス理論はもちろん破綻し、農奴制度から労働者という奴隷制度になっただけだった。

日本社会党は何故名前も消して消滅したか。資金援助を受けていたソ連が崩壊したからという(クレムリン秘密文書は語る、名越健郎、中公新書1205、に詳しい)

これは、今後の日本を考える上に重大な教訓です。著者らはノモンハンに関連した肉親はいないそうで、日本兵は優秀でも、指導部が概して淡泊、優柔不断で、日露戦争の時の旅順港作戦にはじまり、ノモンハン、真珠湾、レイテ戦などにおいて、途中で戦いを放棄して、勝機にとことん戦わない日本幹部たちをやり玉にあげています。

アメリカの艦隊も、日本軍は風のように来て、風のように去っていった、という印象を持つようです。米空母ヨークタウン(大破)に止めをさしていれば、以後の戦局はどれほど有利に展開したかと、小室直樹氏は憂えていますが、戦時には平時とは異なる常識が要求されるのですが、山本長官以下、平時の編成で押し通してしまい、命の惜しい司令官は回れ右をして帰ってきてしまった。

なかのひと

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

五味川の「ノモンハンデタラメ本」でのみノモンハンは知っておりました。
歴史も相手の言うことを聞くだけではダメで自分の目と耳で確認しなければならない。
裏づけ証拠が必要ですね。自分はアホでした。 日本の文化人(評論家歴史家小説家政治家)はほとんどが 実学即ち物理 化学 数学 機械学 力学等の科学的教養の無い所謂文系ばかりで 学校で数学の出来が悪かった口先だけで世を渡るバカ連中です。
今日もテレビでシャーシャーとそんな連中が知ったかぶりしてデタラメを、、、。