土曜日, 10月 25, 2008

以前渡部昇一上智大名誉教授と、副島隆彦氏の英語の用法論争があって、以来両者の接点はないようであったが、今回副島氏の新刊『時代を見通す力』を読んで、南京大虐殺はあった(282ページ)を見て、急にまた接点が出てきた、と感じている。

副島氏は、『私はずっと秦郁彦氏の説を支持し続けている。『虐殺はあった』のである』と簡潔に言い切っているが、なぜ秦教授の説を信ずるに至ったかの理由については一行たりとも触れていない。時代的状況証拠からして、当然あったはずだ、20万はオーバーにしても、現代史家の第一人者の一人が著作で述べているからには、まずそれなりの根拠があるのだろう、という思い込みぐらいにしか私には思えない。

ところが、その秦氏は、約4万人とかいう推定の根拠が、渡部教授その他の諸氏の調べでは、根拠となったもっとも秦氏が賞賛した引用本が、まったくの、でたらめで、書いた本人は南京の戦いに参加さえしていなかった、と暴露され、渡部教授から4万というなら、兵士がいくら、市民がいくらぐらいかの具体的な根拠のある数値をといわれ、以来本は絶版にしていないようだが、テレビなどではあまり4万という数字を控えておられるように、私は感じている。

この前、半藤氏とテレビに出たときに、数字は言わないが、二人で虐殺はあったに決まっているというようなことをいい、二人でうなずきあっているのを見て、渡部教授の指摘も少しは応えているのかな、と思った。

秦氏が、渡部氏の『ドイツ参謀本部』を盗作と決めつけ、ラーベの日記が出た後(約5万前後の数字)だったので、自説の元がトンデモ本であったとしても、その数字に近い資料が出てきたというので、喜び勇んで渡部教授を罵倒に近い取り上げ方をしたので、渡部教授から秦氏の資料のいんちき性や、秦氏の問題点などを反論として取り上げた書籍両方を比較、引用したことがあった。
http://yhsvtex.blogspot.com/2007/06/blog-post_7294.html
そこで書いたように、秦氏が第一級の資料とした本がいんちき本であったことは、いかに戦後我々が、GHQなどによって、宣伝され洗脳され続けていたかを、逆に浮き彫りにする。

副島氏は、ほかの勉強がお忙しいのであろう、以後、渡部教授の説は、引用すらしないところをみると敬遠されているのか、忙しくてかまっていられないかと疑ってしまう。二人の、相互批判の文章をじっくり読んでいただきたい。

私は、半藤氏は?と見ていたが、秦教授も!?と思っている。東大を出て、東条英機氏なども、東大生が、われわれに関心をもってくれていてありがたい、などと被告という身分のときに、学生の秦氏を見て言ったとされるが、それでもなお、灯台もと暗しということもありえる実例として、衝撃的である。

当時の秦氏の著作に関する渡部教授の反論を再びここに掲載する。

『・・・つまり、秦氏は自分の専門の中で第1級の資料として使ったものがインチキであることを見抜けなかったのだ。これを専門家失格という。もし、これが学位請求論文にあったなら、学位褫奪(ちだつ)は確実である。・・・ところが、秦氏は全く反省ぜず、近著「昭和史の謎をおう」では逆に板倉氏を批判しているのだから恐れ入る。「曽根一夫という人物は南京突入部隊の中にはいなかった」という板倉氏の指摘が間違っているという証明でもあれば感心するが、そうではなく、盗人猛々しい言い草で板倉氏を揶揄しているのだ。学者の無恥厚顔もここまでくれば手のつけようが無い。南京虐殺という表題をつけた本の著者が、南京に突入しておらず、それを南京事件と言う表題の本を書いた専門学者が大いに利用したのだ。どこに弁解の余地があるというのだろうか。秦氏は南京問題については筆を折るのが当然なのである。

・・・板倉氏と私は本業は違うが、「見るに見かねた」という点で板倉氏に深い共感を持つ。秦氏も専門家ならば、御自身が虐殺されたと主張される4万人のうち、何人が兵士、何人が投降兵(これは正規の捕虜とはちがう)、何人がゲリラまたは便衣兵とまちがわれた市民、何人が市民として虐殺された一般市民かを区別する努力をしていただきたい。概数でも結構である。その努力こそが専門家に期待したいところだ。

虐殺が問題なのは、市民を市民として虐殺する意図をもってなされた虐殺の場合である。通州事件やナチスのホロコースト、それにアメリカの無差別絨毯爆撃や原爆は、市民を市民として虐殺する意図を以てなされた市民虐殺だから、本物の大虐殺なのである。・・・・』


最近の富田メモでも、チャンネル桜の座談会で、秦教授は自説を展開するも、キャスターに仕切られて不満そうな顔をされている。
http://jp.youtube.com/watch?v=BJ-8j5OR9RA&feature=related
富田メモを検証した秦の論拠は彼の推測・心証のみ#2

http://jp.youtube.com/watch?v=aIWA2GrTz0Y&feature=related
富田メモで日経or半藤が嘘を付いた可能性!

副島氏も、東京裁判ショーで海軍側に刑死者が出なかった理由として、海軍がアメリカの意向にそって参戦したからというプロットを出しながら、南京事件については、秦氏の旧著のみを信じる、とする姿勢にはおかしさを感じてしまう。

満州国はイギリスが将来ユダヤ人も入植させるつもりで、陰でサポートしていたなどと語るのに、そこの責任者でもあり、杉原千畝が6000名ものユダヤ人を極東に送ったとき、時の東条氏その人が異論を唱えれば無事アメリカへいけなかった、という陰の功績者が、アメリカらA級戦犯などという事後法による分類で、海軍と対比させて世界征服の陰謀の中核を担ったような勝手な筋書きで、戦争責任を負わされた。

週間新潮の終わりの部分では、高山教授のコラムが掲載されているが、ちょっとまえ、ルーズベルトが南京事件を戦後裁くために、蒋介石にできるだけ日本軍に手向かうように指示し、オーストラリアの新聞記者を忍び込ませ、南京大虐殺の本を書かせたようなことが、書いてあった。毎日の英文紙に、でたらめな与太記事を書きなぐっていた男もオーストラリア人だった、という記事の関連であったと思う。

昭和19年になってから、突如米軍が宣伝戦で、南京大虐殺を海外で放送し始めたのであった。
それで20万にという数字は、アメリカ側が言い出した数で、裁判ショーで中国は30万以上と言い出したが、二度にわたる「証拠」提出も、採用されなかった数字である。アメリカが言い出した数字で終わっている。中国はその後江沢民一派などが30万という数字を水増ししている。

最近のめだった動きとしては、『The Politics of Nanjing ~ An Impartial Investigation』(南京の政治学~偏向のない調査)という本が英語のペーパーバックとして出版された。

学術書であり、秦氏の中公文庫のような類ではない。

内容は、1937年末から1938年にかけて南京に進駐した日本軍による虐殺があったかどうか、これをつぶさに検証したもので、秦教授の本ようなインチキ資料を漁らないためにも、日本人の証言、日本人の調査によってもたらされた証拠を一切使用していない、という。

戦争犯罪人裁判で提示されたアメリカ人、中国人、欧州人の証言や証拠のみで、その判決内容を構成したものだけに限った、という。

著者は立命館大学教授、北村稔氏であり、それをアメリカのハル・ゴールド氏が英訳された、という。

著者は集めた証言・証拠を分類し、それらひとつひとつが生み出されるにいたった、由来・背景・事情をコモンセンスでもって鑑定し、その信頼度を確認していく。また各証言が証人によって実際に目撃されたものかについても詳細に調べ上げていく。・・・そして最終的に、虐殺と呼べるような事実はなかったと結論付けた、という。(激論ムック146:中学生にもわかる慰安婦・南京問題 西村幸祐責任編集、オークラ出版、2007年7月)

北村教授の本の内容を、日本外国特派員協会で著者をゲストスピーカーとして招き、各国の特派員たちの前で発表した、ことは新聞記事でも紹介された。そのころまでに、私も、いろいろなソースからほぼ確信できる状態まで、情報を集めていた。

うち一例を紹介しよう。神田の学士会館での講演内容の一部である。講師は、もと東大教授で、現拓殖大教授の藤岡信勝氏である。時期は、やはり昨年の6月ごろであったかと記憶する。

先生は記憶すべき数字として、0、20、26、143、300を南京事件の真実を描く際のポイントになるとした。
0とは、中国共産党の毛沢東は、何回南京大虐殺について抗議したか!?  0回というもの。

20とは、いわゆる20万人という意味の20。南京の安全区の15人の委員が20万人の市民がいるから食料をくれ、と何度も日本軍に手紙を出している。12月17日から27日まで20万人と手紙で言っている。そして翌年1月14日には25万人に増えている、という。

この間、殺人事件は26件という記録が。うち一件のみ、日本軍が止まれ、と言ったの聞かずに逃げ出したので、後ろから撃ったのを見た、という東京裁判でも証言したマギー神父の証言だけが目撃談としてある。目撃はこれだけ。渡部教授も以前から指摘され、それ以上は言わなかったが、それ一件だけの目撃だったら、どうやって大虐殺などできるのと、裁判のいい加減さをまず昔、直観したものの、秦教授同様、疑惑はずっと残っていた。

私が自分で調べた(といいてもネットで)資料で、ほぼなかったろうというふうに傾いたのは、皇族が司令官におられるので、もし盗みや狼藉をした将兵がおれば、盗品は返せるものは皆返し、謝るべきは謝るようにというようなお達しが、占領後2週間ほどした暮れあたりに、松井大将名か何かで出された、という文書の存在。

143というのはレイプオブ南京などで使われる証拠としての写真。これがすべて偽モノと東中野修道氏などの調査で判明。一枚もないとなると、・・・・・。

レイプオブ南京もたくさん売れたことになっているが、北村教授の本を英訳したハル氏の調査では、アメリカ人はほとんど買っていない、という。どこかの団体が大量購入した側面が強いようだ。

最後に、300。1937年12月1日から1938年の10月24日まで国民党政府は漢口で300回の記者会見を開いている、という。この記録が台湾に眠っていて調べたら、ただの一度も南京大虐殺についての抗議が残っていない、という。毎回平均35名の外国人記者や外交官たちがいたので、きそって日本非難の宣伝をやったのに、その内容は、一行たりとも虐殺の抗議はなかった。

その中には、しかし、「日本軍の12月13日に入城してからの姦淫、放火、略奪など、要するに極悪非道、人間性の堕落した状況を宣伝できて、うまくいったと書いてあるそうである。

南京安全区の記録には、多数の姦淫、放火、略奪があったと記録されているが、それらの2/3は夜間に起きたものだという。当時、南京は31日まで停電で、日本軍は午後9時以降夜間外出禁止令が出ていた、という。
ある国民党の軍人は、夜間に外出する勇気のある日本人はいない、と書いているそうである。


なかのひと

ゼロとはいえないが、大半は敗残中国兵ではないのか???

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