日曜日, 11月 04, 2007

平成4年11月4日、旧郵政省は、文化人切手の第一号として、関孝和と与謝野晶子の切手を発行した、という。(平山諦著、「和算の誕生」、1993年、恒星社厚生閣)。

『我が国の学術・文化の発展に顕著な功績を残された方の偉業をたたえ、今後の我が国の学術・文化の発展に資するため、文化人切手を発行する』と郵政省機関誌にはある、という。

発行の対象者は1年間に原則二名とし、とある。

与謝野晶子は、歌人としてすでに著名であるが、関孝和とならんでだされた背景には彼女が、昭和4年秋までに与謝野寛、正宗淳夫、与謝野晶子編集校訂になる「日本古典全集」全50冊を出版し、その中の二冊は古典数学集と題して、割り算書、塵劫記、諸勘分物、堅玄録、因帰算歌が納められている、というから、発行理由がわかろう、というものだ。

塵劫記は江戸時代の数学書で、名前を聞いた方も多いだろう。

http://ja.wikipedia.org/wiki/塵劫記

には、『1627年(寛永4年)に吉田光由が明の程大位の著書、『算法統宗』からヒントを得て執筆したもので、数の桁の名称や単位、掛け算九九などの基礎的な知識のほか、面積の求め方などの算術を日常生活に身近な話題をもとに解説しており、一冊で当時の生活に必要な算術全般をほぼ網羅できるような内容となっている。』・・・
『明治時代に至るまで、実に3~400種類の「塵劫記」が出版されたといわれている。』・・・

『同書はまた江戸時代の多くの学者に影響を与えたことでも知られており、後に和算の大家となった関孝和や儒学者の貝原益軒なども若いころ『塵劫記』を用いて数学を独習していたことがわかっている。』

『なお、『塵劫記』という書名は法華経の「塵点劫」(この世の土を細かく砕いて粉にしたものを千の国を通るたびに一粒ずつ落としていき、その砂がなくなるまでに通る国の数のことで、数えきれないくらい大きな数のたとえ。』とある。

『法華経の「化城喩品」などにその記述がある)に由来しており、「(永遠に等しいほど)長い時間経っても変わることのない真理の書」という意味が込められている。』と解説されており、大げさにいええば、明治維新後も、西洋数学を吸収発展させた基礎学力を養った源流に位置づけられる、数学書と言えるかもしれない。

それにしても、晶子さん、歌も凄いが文化的影響力も歌だけにとどまらなかった点は初耳で、いまでもその一族が、国会議員にいて、税制の大家というあたり、数大系の影響を与え続けているわけだ。

さて、平山博士の「和算の誕生」であるが、家康が江戸に幕府を開いた頃、イタリアから宣教師スピノラが来日し、慶長9年から同16年までの7年間に京都の天主堂で布教の傍ら、数学を教えたという。

このことが我が国数学の誕生のきっかけの一つであると思う、として研究した生まれた本である。

『塵劫記以下の初期の書物には、出典の不明なものがある、として平山博士は仮説を設けた。

天文18年(1549)にはじめてスペインの宣教師ザビエルが来日してから、慶長16年(1611)の禁教まで約60年間布教が続けられた。慶長7年にはスピノラが来日した。彼は本国イタリアでクラヴィウスの教えを受け、38歳で来日し、日本の若き学徒たちに数学を教え、長崎で火刑によって殉教したのである。

このとき、門下の書き集めた切支丹学習録といったものが寛永の後まで伝わって和算家の利用するところとなったのではないか』、というものでる。

スピノラのアカデミアは、当時北京にいたマテオ・リッチと深い関係にあったと思われるから、中国算書の輸入にも便宜を得たであろう、とも。

カルロ・スピノラについての文献は「カルロ・スピノラ伝」宮崎賢太郎著、昭和60年があるというが、版元は不明。

彼の乗った船が海賊に襲われ、用意したノートや書籍がすべて失われたとということから、平山博士は我が国の和算の起こりは、西洋の書籍には関係ないことがわかる、と記述している。

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