月曜日, 10月 22, 2007



自分が生まれてから、半世紀以上をすでに経過し、生まれる前の半世紀と生まれた後の半世紀について考えたり、感じたりできる人生の境遇に到達した。通常ならば、どちらもはぼ同様の意味を人生に持つはずである。若いときは、生まれる前の時代の影響を、幼少期に受け、壮年以降は、幼少期の刷り込みをもとに徐々にその後の体験や勉強を踏まえた、生きている時代の影響を受けるであろうが、最近の若い人たちは、すべて「戦後的な」影響しか持ち得ない。

団塊の世代は、戦地に赴いて九死に一生を得て帰還しえた世代の直接の子弟たちであることは95%以上の確率で言えるかもしれないほど、戦前の時代精神の影響を受けているはずである。
世界的にみても、この世代はみなそうした共通性をもち、その反動ゆえか、学生運動などへ傾注したエネルギーは並大抵ではなかった世代であろう。

その後、半世紀以上、日本は「平和ボケ」とまで称されるほどの軍事とは、日常感覚的に無縁な意識で過ごせる時代を生きてきて、戦争や戦争の危機が常態であった、つい半世紀以上前の
時代について、漠然とは知りつつも、意識的かつ無意識的に、「意識下」へ追いやって生きてこられた。

しかし、いまや、集団的自衛権と憲法の問題や、地球環境の破壊防止など戦後の明るい一時期に比べて格段に多くを学び、多くを考えて、今後の進むべき方向を真剣に模索しなければ、社会人が務まらない時代へと入っているように思われる。

その未来を考える際に、避けて通れないのが、過去における日本人たちの行動様式や、他国との諸関係を、政治、経済、外交、などの各方面から総合的に捉える視点を見出す努力だろう。単に、いい学校を出て、いい企業に就職したり役人になりさえすれば、人生の目的の大部分を達成できる(筈の)の時代はとうに過ぎ去っているにもかかわらず、皆塾通いをして目先の目的に振り回されているように見えて仕方がない。

年金問題にかかわらず、これからの時代の若い人たちは、団塊の世代の意識感覚では計り知れない問題意識をもってことに当たらなければならないはずであるが、皆、それらを漠然と自覚するがゆえに、かえって国意識や共同体意識などは希薄なのでは、と自分の子供を見ても感じるが、これには若い人たちの立場から大いなる反論があるように感じる。対話などそう簡単にできるものではない。

今世紀は始まってまだ間がないが、世の中の環境はますます複雑になり(見え)、高度化していくだろうことは論を待たないだろう。そこで、複雑なものを割り切って眺める視点の構築が
急務であろう。科学では、複雑な現象を揺らぎとかフラクタルで現象を捉えるとかえってシンプルな「構造」が見つかったり、そういう構造でなぞらえることが可能な現象が多々見出されている。

複雑な世の中を捉えて自分なりの解釈と意見を持ち、現象を捉えるためには、過去の現象と結果の解釈を学ぶことが遠回りのようでいて、かえって近道なのではないだろうか?その際、少なくとも3つ以上の視点から考えることが重要だとは、比較文化論の例でもそうであるように、必要なのではないだろうか。対象にほれ込んで埋没することがあっても、判断の際には、それらから離れ、他と冷静に比較検討していかなくてはならないのだろう。

基本になる事実認識すら、格段の差があるうえに、昔Aだと教えられてきた、ほぼ定説と思えたことが、Bだと教えられたり、という多様化の時代となった。英語で日本人は、the Japaneseといい、米国人はAmericansといいtheがつかないが、昔の、戦前の日本人が、特に外国人からは、個々の日本人が存在することは例外的で、いわゆるステレオタイプの「日本人」として一把一からげでくくって済ませることができた時代の名残らしいが、最近はJapaneseとしか言いようのない現象が、当たり前だがあるではないか、という時代になっている。

西欧などでは、町を歩く他人が、実は何語をしゃべるかわからない、という大前提があるというが、日本では、韓国語、中国語を除けば、99%近くは日本語であろうが、考え方は皆違い昔の日常社交儀礼なども様変わりしてしまっているようで、話が通じない現象も多いようだ。我々も戦後、左翼、右翼とノンポリの三類型ぐらいしか区別しなかったが、今はなんとなく左翼みたいな人たちが圧倒的であるらしい。



このブログで、以前5月28日に、特攻の話を載せたが、そのときの雑誌の表題(別冊宝島)には、決して忘れてはいけない歴史の真実!などと出ていた。そのときは、今回のこの雑誌も見ていて、『俺は君のためにこそ死にに行く』という映画完成の特集記事があり、そのことにも触れ、映画への客足が伸びている、とも書いた。半年近くたって、今朝も、近くにあったその雑誌を何気なくめくっていたら、後半に、航空特攻の戦果の特集があり、米軍発表で、特攻の戦果は意図的に半分以下に抑えられて報道されていた、などとあり、具体的な日時を追っての
戦果記録なども紹介されていた。

さらに、特攻戦術の分類や、特攻作戦の経過と概要、そして今朝見ておや?と思ったのは、陸海軍特攻機列伝だった。

前述の映画では、実物大の隼が二機製作され、本物のように飛び交って撮影されたらしいが、特攻に使われたのは、隼だけではないと、各戦闘機とその特攻機としての出撃機数などまで掲載されていて、真っ先に中島(現、富士重工)九七式戦闘機 〔キ27]があったことだ。陸軍機から先に紹介されているので、零戦の紹介は6ページほど後となっている。記録映画などで見かけるのは圧倒的に零戦だし、出撃機数も零戦がトップで、フィリッピン、沖縄戦で使用された機数は640機以上だという。

その九七戦闘機、昭和12年12月にデビューしたもので、中国戦線で投入された海外機(米、仏、ソ)を圧倒して大陸上空の制空権を確保、ノモンハン事件でもソ連機を多数撃墜した名機だとは子供の頃、友達の家にあった「丸」の記事などでも知っていたが、なんと製造は昭和18年まで続けられていたのだという。

しかもその格闘性能があまりにもよくて、後継機隼の性能をゆがめてしまい、その後の陸軍機発達に悪影響を与えた面も否定できない、とも書かれている。こうした日本側の特殊事情は、書かれていないが零戦にも当てはまるのではないか?。特攻には、実用機不足で、180機もこの機体が投入された、という。

通常650馬力だったが、練習機用に低出力の500馬力機も250キロ爆弾一発を懸吊し、使われたとあり、第113振武隊所属の天剣隊の出撃写真が載っている。垂直尾翼に、ヤマトタケル尊の時代の剣を交差させて、その交点に日の丸を配したデザインが描かれている特攻機だ。ちょっと目には、どこかの大学の校章かと思われた、ペンを交差させたデザインに見える。



夜になって、夕食後書斎でテレビをつけていたら、NHKで、「学徒兵、許されざる帰還」というのを放映していた。最近のNHKの番組も、少しは反日色が薄れてきているか?と思いながら、見ているうちに今朝の雑誌記事と内容が重なってきて、思わず引き込まれた。

そこでは、雑誌の記事と重ね合わせてみると、いろいろな側面が浮き彫りにされる。NHKでは、詳しく言わないが、問題として扱っている特攻機数が1800機といっていた。雑誌では、フィリッピン特攻の天号作戦と、沖縄を対象とした菊水作戦で、菊水作戦だけで海軍機800機、陸軍機600機の1400機と書いてある。

最初の天号作戦は、敵同士のように憎みあっていたという話もある陸軍と海軍が合同で特攻を行う話になったところから、名づけられた作戦名という。テレビでは、陸軍が海軍の特攻作戦(すでに神風攻撃などは行われていた)のもちかけを責任者が疑問視していた、と靖国神社に残された軍務日誌などから紹介していた。

また、在学中に引っ張られた士官たちを、中将自ら訪れ、特攻作戦の実施にあたり、希望者を募った、という。最初ほぼ全員が希望せずに丸をつけたが、中将自ら命令伝達をしにきた意味を考えるべきだ、という意見に促され、ほぼ全員が熱望す、とか希望するに丸をつけたらしいが、結果的には全員が特攻に。

海軍との約束の日、まともな機体がなく、4部隊が九州に陸軍部隊として到着するはずが一部隊しか届かず、海軍側から問題視されたが、それでも行かざるをえなかった、という。

飛行場で、空中戦の訓練から、急遽地上の目標に向かって突っ込む訓練に切り替えたらしいが、三機編隊で目標へ向かって飛び、その後、三機は扇を開くように左右に離れて、という訓練で、目標上空で機体同士が接触して、訓練でも死者が出るほどの、錬度だった、という。

これは海軍でも同様であったらしく、生き残った隊長の証言では、編隊飛行も満足にできない部下がたくさんおって、・・・ということらしい。

また、隼でさえ、急降下速度は300キロが限度で、350キロだと空中分解するという。舵自体が効かなくなるので、上から艦艇に突入するのはできなかった、という。しかたなく威力の劣る水平か、やや上空から斜めに飛び込む方法だったらしいが、命中度はよくない。

特に九七機においては、エンジン故障が続出し、出撃したものの、不時着などざらだったらしい。機体を軽くするため、無線機をはずし、武器をはずして丸腰で250キロ爆弾だけを吊って出撃したので、敵戦闘機の迎撃を受けたら、ひとたまりもなかった、という。証言者は、下に逃げて、海に不時着して助かった方。教壇に立ちたいと熱く語っていた仲間の一人は、上の雲の中に逃げたが、雲が真っ赤に染まった、という。

米軍レーダーは当時80キロ先の攻撃機も捉える能力を有し、30キロ近くまで来てから出撃しても十分、無防備な敵機、しかも爆弾を抱えて、機体も操縦技術も飛ぶのがやっと、というような敵相手を容赦なくやっつけた、という米兵の証言は、してやったり、というような表情で回想していた。

天号作戦では、海軍機は敵艦隊を、陸軍機は輸送船団を、というように役割分担していた、という指摘もテレビで初めて知った。

また、特攻兵に、おんぼろ機体をあてがった背景には、特攻は建前上、強制ではなく志願したからだという意外な証言が、テープに残っていた。通常部隊は、天皇の命令で死ぬことが建前なので、いい機体は優先的にそちらに回したのだという。

しかも、特攻で出撃しても、かなりの人数はエンジントラブルや天候などで不時着して死んでいないという。そのため、陸軍の場合、名簿に丸印がついていないものは、九州の福岡に振武寮を作り、ここにまとめて収容し、秘密が外にもれるのを防いだ、という。でないと、特攻で死んだはずの兵隊が、そこかしこで生きていたら、大本営発表そのものに?がついてしまうから、という。

そこで集められた元学生特攻兵たちは再び今度は本土上空で特攻をやれ、と軟弱さを非難されながら、肉体的にも痛めつけられ、再び内地の航空隊へ。しかし、大半がそこで8.15を迎えてしまった、という。

振武寮で、帰還した兵たちに再度、特攻に行けと教育した担当者の記録テープでは、皆大学や専門学校生なので、法律論や幅広い知識から、なぜ自分は死ななければならないのか、疑問に思っている態度がありありだった、と。戦後のことなので、命は地球より思いなどという思想が入ってしまっている、と担当者は言っていた。

生き残りの特攻兵たちは、結局、それでも死ぬ意味を見出そうとするならば、国家のためというより、家族や、恋人を守るために、というような具体的な対象のために、という思いに向かっていった、と証言。

上官から、海軍初の神風特攻隊に指名された関大尉は、数秒の沈黙の後、ぜひやらせてください、と答えたという。しかし、取材記者が心境を聞こうとしても、ピストルを向けて近づけなかった、という。しかし、最後には、新婚間もなかったので、天皇陛下や帝国のために行くんじゃない。最愛の人のために行くんだ、どうだすばらしいだろうと言っていた、という。

しかし、この上官、後で、なんでよりによって関大尉のような新婚間もない、真珠湾攻撃の立役者のような人材を選んだのか、詰問され、上層部の怒りを買ったともいう。

坂井三郎氏は、硫黄島で敵に体当たり命令を出されたのは、自分たちが最初です、と書いていたが、敵機に見つかり、飛び込む相手は見つからず編隊飛行の二機とともに逃げおおせて帰還したら、腕のいいもう一機も帰っていたという。爆撃機などは全機、帰還しなかった。

NHKは、海軍とはじめた陸軍特攻の総元締めの某少将は、おれも後から必ず行くからと杯を交わしていた人は、自決も、特攻もなく95歳で天寿を全うした、と伝えている。同様な事例は、城山三郎氏の小説にも出てくるが別人のようだで、複数はあるいは大半はそういう立場で、そういう役割をせざるをえなかった、ということかもしれない。

映画、『俺は君のためにこそ死にに行く』という題名は、石原都知事が総監督ということだったらしいが、この題名に、特攻の真実が凝縮されているように、初めて意識した。合掌。

来る11月18日は、靖国神社で、恒例の「出陣学徒慰霊際」が行われる予定である。

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