水曜日, 10月 03, 2007

ハレー彗星に名を残した17世紀の天文学者、エドモンド•ハリーは、その生涯のほとんどを、太陽黒点の極端に少ない、マウンダー極小期に送っている。オーロラは、太陽黒点と関係が深く、マウンダー極小期にはほとんど見られず人々は不思議がった、という。

ハリーはオーロラの記録のない37年の後、やっと1716年3月にイギリスでオーロラが見られたとき、ちょうど王室天文学者の職務にあった。そこで、彼はオーロラ現象を説明する論文を書くことになった。

当時、ハリーは60歳、論文の中で、彼の長い経験の中で、それまで一度もオーロラは見たことがなかったことを告白している、という。76年周期の彗星といい、彼はその点で幸運な学者であったのかもしれない。

エディ氏は、オーロラの記録を統計処理してみると、70年にわたるマウンダー極小期、すなわち太陽活動極小期の存在がはっきりする、と述べている。また、望遠鏡観測が始まる前の黒点観測は、東洋で古くから肉眼観測されて記録に残っていたので、早い時代のオーロラ観測と東洋での黒点観測の記録を照合してみると、両者とも共通する増減が浮き彫りにされた、という。

その結果、エディ氏は次のような確信を持った、という。すなわち、まず第一に、長い目で見て、現在の黒点やオーロラの発生頻度はたぶん異常なものであること、第二に、17世紀以来太陽の活動の度合いは着実に非常に高いレベル、つまり過去千年の歴史において、おそらく他に比肩されるもののない高いレベルまで、上昇し続けて来たのではないか、ということだと言う。

彼が研究に用いた東洋の黒点の肉眼観測というのは、古いものでは紀元前5世紀には記録が現れ、その後規則的に報告されているという。

大きな黒点や黒点群は、日の出や日没時、あるいは煙などでかすんで見えるとき、肉眼でもかなり見ることができる、という。石油文明など無縁な時代のことであるから、その気になればさぞかしよく観察されたであろうことも、疑い得ない。

このような肉眼による観測記録を、1933年に日本人の神田茂氏が一つのリストにまとめている、という。日本、中国、朝鮮における黒点観測の記録が整理されている、という。そこからも、1584年から1770年におよぶはっきりした傾向が見て取れ、これはマウンダー極小期を含む結果となる、と書いている。

肉眼による観察は、不正確という弱みもあるが、観測が続けられた過程での、黒点数の増減を知る上では、たいへん貴重な意味がある、と指摘している。


いっぽう望遠鏡観測以後の黒点の移動の日変化の記録を詳細に調べると、黒点が少ない時期のほうが、太陽の赤道付近の自転率が高いことが判明した、という。現在の太陽理論によれば、太陽表面の複雑な回転が内部に存在している磁気と相互に作用し合って電流を生じさせそれが太陽面に磁場をつくり黒点を生じさせるとされている。

1620年代の自転率は、現在とほぼ同じだったが、1640年頃になると、極地方にくらべて赤道での自転率がかなり増大している、という。

また、マウンダーの指摘したような時期は、過去にも何回か存在したようで、シュペーラー極小期という名前をつけたマウンダー期のような時期もあり、この時期、太陽面の活動レベルが非常に低かったことがわかる、という。

0 件のコメント: