金曜日, 9月 14, 2007



2003年4月発行。
東京の中心にありながら、めったに行かない場所。・・・まるで、だれもいないことが初めから予定されていたかのような静けさが、常に広がっている。

日本で最大の政治空間から忘却された空間へ、・・・・世界でも類をみない「何もない空間」から見える近代天皇制と日本のかたち。と表紙のうらの見開きにある。

皇居前ひろばのある場所は、もともと江戸城の西丸下(西の御丸下)と呼ばれ、老中や若年寄の約屋敷や。会津藩や忍藩(おし藩、現行田市。天領であった秩父は忍藩から代官が駐在していたらしい)の両松平家の屋敷などが置かれていた。

明治初期には旧西丸下は官有地となり、これらの屋敷がてっきょされるかわりに、近衛騎兵営や元老院、家族会館、岩倉具視邸、東京衛戍主衛、内務省図書館など、公家関係と軍・警察関係の施設に使われていた。

当時の地図には、馬を飼う施設が皇居周辺にもかなりあった。

(東京に出て学生生活を体験していたとき、勉強出来ない夜は都内を歩き、地形を体験し、江戸の歴史に思いを馳せた。おもいがけぬ一画で出会う夜の屋台ラーメンも捨てがたい味があった。東京はかなり坂が多く、地理学の教科書も、そのことだけで一冊の本ができるほどであり、漱石などが愛した本郷界隈や学習院大のあたり、神田や白山のあたりもよく散歩した。家から通っていたが、下宿するようになってから、東京音痴も手伝って、夜の散歩は移動を通行人に邪魔されず、独特の味わいがあった。)

1883年に岩倉公が死去すると、これらの施設は順次撤去され広場が出来て行く。88年10月には皇城から宮城となり、宮城前広場が出来て行く。初めてマツが植えられたのは、1889年4月のことであり、ほぼ同じ頃に芝生を張る工事も行われたと言う。

著者は、皇居前広場の時代区分を5段階にわけて

1.準備期1888(明治21年)から1924(大正13年)まで

2.天皇制儀礼確立期 1924から1945(昭和20年)まで

3.占領軍、左翼勢力、天皇などの激突期 1945から1952(昭和27年)まで

4.空白期 1952から86(昭和61年)まで

5.天皇制儀礼再興期 1986から現在まで

のように分類している。

・・・ ・・・・

(皇居前)広場にいる人々にとって、二重橋にいる天皇はただでさえ見揚げる対象であったが、戦争の勝利は天皇をますます神に仕立て上げて行った。君が代の斉唱が感涙を伴わずにいられなかったのは、「神」であるはずの天皇が「人間」として「優雅なる御挙手の礼」をもって応えたからである。たとえ天皇が何も言わなくとも、ただ白馬に乗って挙手をするだけで、それをみる人々は「あまりのかたじけなさに感極まる」のである。

そして「感極まる嗚咽」は、入江の日記にあきらかなように、15分後に皇后や皇太子が二重橋に現れることで倍加される。皇室の主要メンバーが勢ぞろいし、天皇は大元帥の、皇后は「国母」の役割を見事に果たしている。武漢占領の時以上に、人々は大東亜戦争の勝利を確信したにちがいない、とある。

国母ということばは、この本で出会うまでは、故ダイアナ妃の事故死(他殺!?)まで生きている人の具体例として聞いたことがなかった。イギリスの国母が、異人種との間にできた「王子?王女?」を宿している、ということに耐えられない、という主張が書かれていたことを思い出す。

まあ、ダイアナ妃も、そのこと以外に少々政治的に動き過ぎた感じもしているが、・・・・。

戦局の悪化とともに、広場には高射砲陣地が設けられたが、依然として聖なる空間は保たれていた。たとえいくら家が焼けようが、関東大震災の時のように、罹災者が広場を埋め尽くすことはなかった、という。
(震災時は、上野に50万人、皇居前に30万人という被災者があつまり、今で言うテント村ができ、最後でも3000人ほどが、ながらく広場に住んでいた、という。)

焼け野原が広がり、罹災民が国民学校の校庭や、寺の境内などにあふれる中にあって、この広場だけは敗戦のその日まで、「無傷」を保ち続けた。


8月15日の皇居前広場

『玉砂利に額を押し付けて。きのふまでの輝かしき民族の歴史、けふは悲しき民族の歴史の日を慟哭する赤子(せきし)われ、大東亜戦争は終わったのだ、さあれ一億国民は、戦争終わる日の宮城前に、どのやうな光景を眼にせんことを思ひ、苦しき一日一日を、この楽しい夢を追ひ、希望に胸を膨らませて戦ってきたことか、・・・・・・・提灯行列、・・・旗行列、・・・歓声、・・・笑顔、・・・ああ聖上の白馬に召させられて二重橋上に出で立たせ給へば、百雷の万歳天地に響きわたる・・・・・夢寐(むび)にも描きし栄光の勝利のその日は、我も我が子も遂に見んとして見得ざることとはなった。』(朝日新聞、8月15日)

勝利の幻想は、8月15日正午の玉音放送によって完全に打ち砕かれた。1942年2月の第一次祝賀式で天皇が白馬に乗って二重橋正門鉄橋に現れ、十万を超える人々が万歳を叫び、君が代を斉唱した「聖なる空間」はその三年半後には「民草」が同じ二重橋に向かって「不忠」を詫びる「慟哭の空間」と化していた。



Map

2 件のコメント:

sho さんのコメント...

こんばんは~♪

3連休に入り、ほっと一息というところです。

今日は埼玉の荒川サイドに足を運びました。いい天気でしたが、それほど暑くもなくライダーにはいい季節がやってきたなぁと実感しています。
残りの2日とも晴天のようで、助かりました。

ウイークデイは仕事で忙しいため、休みの日に気ままにバイクに跨ることに家族も大して異論をはさみません。その点も感謝すべきところなんでしょうね。
しかし、カミサンの本音は、主人が留守して息子の勉強やピアノ練習などの邪魔をしない方がいい!ということなのかもしれませんが(^^;

今も息子は塾へ、カミサンは地域のお祭りのパトロール役でお出かけです。
こうして誰にも邪魔されずにゆっくりパソコンを打てることにも感謝…ですかね。

nature さんのコメント...

おはようございます。

コメントありがとうございます。久しぶりに自宅でコメントの存在を知りこうして返事を書いております。

こちらは今日から二連休で、今月はもう1回連休があるんですね。

関東地方は台風の進路外で幸運ですね。

昨日前後輪のタイヤ交換をしました。操縦性がまるで変わってしまい、それは新品に変えた以上の変化でした。カーブでこわいくらい自然にバイクが倒れ込んでくれて、何の造作もなく回れます。橋石製で、結構高くてあわててコンビニ銀行に駆け込まざるをえなかった値段でした。

今日は、大人しく書斎で、・・・と思っていたんですが、なんだか山道に出発したくなってきましたよ。こうしてsho様から便りをいただいたりしてしまうと。

あわてて、キャノンの充電中です。^^;)

いずれ、どこかで遭遇したいものですね!?