日曜日, 9月 30, 2007

芝生部分を含めた皇居前広場の総面積、465000平方メートルは集会用の広場としては世界最大といわれる天安門広場の440000万平方メートルをうわまわっている、と後書きの冒頭にある。

著者が、あまり関心を引かないこの広場に初めて関心を向けたのは、99年11月に天皇在位10周年記念の「国民祭典」を取材したときに始まる、という。(筆者は東京生まれ、という)

このとき、初めて広場の大きさに強い印象を受けるとともに、「その時代錯誤的な儀礼の内容」にも拘わらず、広場と二重橋があるかぎり、いつでも似たような儀礼が行えるという「不気味な」予感を持つと、とある。

その予感は、二年後の内親王誕生に際して的中することになる、と書いている。

また、本書『皇居前広場』で、引用された井上章一氏の『愛の空間』にも触発された、ともいう。この研究書は皇居前広場を対象としたものではなかったが、占領期や独立初期のさまざまな資料を駆使して「愛の空間」としての広場が浮き彫りにされており、皇居前広場に対する先入観を根本から覆された、という。

大学の先生も、敗戦後米兵らが、途中でジープから降ろした「女性」を寮に留めてやって、ついでに食べてしまった学生が、いましたよ、とも。もちろん、「わが輩はネコである」のように、殺して食べたわけではなく、部屋で一緒に寝てしまった、ということだろう。また、草や樹木が生い茂る構内は、時として、「愛の広場」ならぬ「愛の空間」と化し(この場合は、さすがに学生ではなく)、その目撃を聞きつけた学生も実験を放り出して駆け足で視察に赴くこともあった、という戦後の一時期があったように聞き及んでいる。

常習者だったのか、そのつどちがうカップルだったかは、さすがに聞きそびれた。今では、もっとよく整備されていても、そういう場所では無くなった。人の移動が、愛の密室と化すことが可能な車が主体となり、
駐車違反への取り締まりも厳しいので、必然的に郊外型のホテル群へ向かう、ということなのであろう。

皇居前広場でも、激しい運動を禁ず、などという立て札がたったこともあった、という。激しい運動ってどのへんまでをいうのかしら?とカップル達はいぶかしがった、という。

少子化が問題となっている昨今では、信じられないような時代気分があったのだろうな、という結論に帰着する。テレビはおろか、いわゆる家庭の三種の神器など出てくる以前の話し、活力はあっても、移動手段からして今では考えられない時代だったのであろう。

団塊世代ということで、高校に入学した時、校庭の一部に鉄筋校舎を建築中だった。ある朝ホームで見知らぬ二人組に声を掛けられた。学帽の校章をみて、俺達今〜高校の現場へ行っているんだ、ということだった。服装を見ると一人は背広の上下、もう一人はジャンパー姿だった。とても、現場作業員には見えなかった。貴重な社会勉強。体育の授業中、工事現場で、猫車を押している作業員が手を振っている、みるとあのホームでであったうちの声をかけてきた人だった。それから一、二年もすると、その鉄筋校舎(借金校舎といわれていた)のまわりは、教諭たちの色とりどりのマイカーで囲まれるようになった、過ぎし日の思い出が蘇る。同級生の中には、数年後の三島事件に参加した学友もいた。

福沢諭吉は、「封建制度は親の仇でござる」とか言ったとか言わなかったとか。養老孟司教授(バカの壁などの著者)は、明治以来日本はずっと、子は親のようにはならない、ということが当たり前でやってきて、それがいろいろな歴史認識問題まで、無意識に影響している、と苦言を呈している。

デュラン・れい子さんの『一度も植民地になったことがない日本』という本には、女史のダンナ様が、昔から頑として変わらない二つの主張がある、と書いている。

それは「日本は大きな失敗を二つしたと思うね。一つは220年もの間、鎖国をしたこと。もう一つは、アラスカを買わなかったことだよ」と。

アラスカ購入はともかく、鎖国は惜しいことをしたと、昔から思っていた。いまでは、そのプラスの面、地球全体が、当時の江戸の生活のような生活様式をしない限り、増え続ける人類の存続があやうい、ということが判明しだした、ということから評価が変わると言うか、単純な進歩思想にはなじめない。

エネルギー利用が、海水から水素をとって制限がなくなったとして、地球表面から宇宙空間へ放射で散逸していくエネルギーは限界があるので、温室効果ガス云々以前に、地表が熱でダウン、人類は生きていけなくなる。

渡部昇一教授は書いている。

ライフスタイルを身につける

 旧幕時代に学問をするということは、何かを急いで修得するというよりは、一つの生活様式や生活感情...ライフスタイル...を身につけることであった。(武士及びそれに準ずる階級->自由な立場の商人、富裕農階層)なるべく早く何かをマスタ−しようというあせりはなく、日々古典的文献を精読し、作詞・作文し、自己の生活の形態を、心の中からしだいに外形におよぶところまで徐々に形成していったのである。

知的達成から知的生活へ

 しかし開国当時の大学の雰囲気がわかるような気がする。「今、いちばん陸軍がよい国はどこか、また海軍がよい国は」と為政者たちも外人に問い、それに従って日本の陸軍も作り、海軍を作ろうとしていた時代であるから。... ...そして「文科大学(東大文学部)へ行って、ここで一番人格の高い教授は誰だと聞いたら、百人の学生が九十人までは、数ある日本の教授の名を口にする前に、まずフォン・ケ−ベルと答えるだろう」(夏目漱石全集第八巻)というような事態が生ずるにいたったのである、と。

0 件のコメント: