木曜日, 7月 19, 2007



坂井三郎氏の「サムライ」の日本語版を数年前から何冊か読み、いろいろ考えた。終戦時、上官から
一切の書類や写真を焼却処分するよう指示されたが、考えがあって保存した、という。

戦後、GHQから呼び出しを受けたとき、「戦犯」として事情を聞かれるのかと覚悟を決めたらしいが、いろいろと聞かれたのは、初の米軍爆撃機撃墜者は誰か?という点に関する関心であって、肩をたたかれ、君が撃墜第一号者だと「認定」されただけであった、という。ライカカメラは、いつも零戦に積んであったという。それで、今我々は、いろいろな写真で、当時を知ったり、いろいろな連想が膨らむわけである。

何かの折、坂井さんの娘さんがアメリカ人と結婚して、男のお孫さんがおられると聞いていた。不思議な縁があるというものだ、と思った。さらにほかの戦記物などもよみ、考えると坂井さんは幸運、強運な方だと
つくづく思った。中国上空で零戦に習熟して、空母でなく地上基地でのパイロットだったこと。目を負傷されて、昭和17年には一線を退いておられることなど。それで、撃墜数が64機と少なめなのだろうと思った。

米国防総省に飾ってあると言う「最強撃墜王」(武田信行著、光人社、2004年8月、2400円)、西澤廣義中尉(戦死後二階級特進)のポートレートは、西郷輝彦に似た好男子、あちらではトップエースとして知られているというが、公式記録で87機、途中で軍が記録をやめてしまったので、もっと多いという。本人は、100のオーダーを軽く超えて、たしか200に近い数字ぐらいと思っていたようだ。




西澤中尉は、あたらしい零戦を受け取るために輸送機に載せられ、目的飛行場の着陸寸前に敵機に襲われ、24歳10ヶ月で戦死された。昭和19年12月26日。一時は、敷島隊の特攻攻撃(関 行男 大尉ら)の直掩機
のパイロットとしても記録に残るエース。

この本はまだ読んでいない。本文だけで600ページ以上ある。それにしても、エース20傑の撃墜機数を積み上げるだけでかなりの数になり驚いた。敵にしてみれば、たまったものではなかったろう。戦後、日本に航空機開発をさせないよう仕組んだのはそれなりの理由があってのことだ。しかし、アメリカ人は零戦やトップエースがお好きなようである。日本の防衛省に、アメリカ軍のトップエースの写真を掲げる器量があるのだろうか?天皇陛下は、B29は敵ながらいい飛行機だとおっしゃったとか。

さて、さいきんいわゆる「従軍」慰安婦問題に積極的にコミットされている秦郁彦教授の余技(?)かと思われる単行本が、このゼロ戦20番勝負。多くの著者の書かれたものを選んで、もちろん御自分で書かれた5編も含まれる。坂井三郎氏の活躍も一編「ガ島上空の長い一日」(柄佐波英一郎)含まれる。栄光の記録ばかりでは無く、特攻や敗北の悲話も含まれる。坂井三郎氏の本とはどちらかといえば対局にある位置づけかもしれない。




この本で私にとって印象的だったのは、第14話「三号爆弾の火球がB24を包んだ」。敵爆撃機が零戦からの攻撃を避けるため、接近してひとかたまりに飛ぶようになって、攻撃しづらく敵からは防御しやすい態勢で爆撃にくるのに対処した戦法。上空で、対航空機むけ焼夷弾のような爆弾を編隊めがけて投下、爆発させると、相手は類焼を避けるためばらばらになる。そこへ零戦が攻撃を仕掛けるという戦法。海兵出(63期)の黒沢大尉(昭和18年)が燃料供給基地、バリクパパンの防空を担当されたとき、編み出した戦法だという。

写真を見ると、編隊の上空から火炎が花火のように編隊を包んでいる。周辺機は離れざるをえないだろう。
これも、敵戦闘機が護衛するようになると、効果はあがっても、味方の損害も増加したと言う。

「381空を精強な防空戦闘機隊に育て上げた黒沢丈夫は、比島や南西方面を転戦し、九州で終戦を迎えた。
これによって、黒沢と空のつながりは切れたかに見えたのだが、運命は数奇な巡り合わせを用意していた。
 これよりはるかのち、黒沢は郷里の群馬県御巣鷹山の上野村村長として日航機事故に直面し、さまざまな決断を強いられることとなるのだ。
 しかし、これはまた別の物語になるであろう・・・・・。」と結んでいる。

それ以前から、どうも上野村村長は、零戦のパイロットではなかったかという思いが、東大教授の書かれた
航法関連の記事から推定はしていた。教授は、名パイロットたちの失速寸前での速度で戦闘機を小回りさせる秘術に、航法研究の立場から、生き残りパイロットたちにいろいろと経験を聞き回ったという。いちばん、親切に疑問に答えてくれたのが坂井三郎さんだったという。群馬県の村長さんの話は、何度聞いても
威勢は滅法よいのだが、失礼だが、参考にならなかったという。作り話の操縦自慢もあるのでは、という
雰囲気がただよう記述ではあった。

坂井三郎氏は、プラモデルを使って、椅子の上にたって、航法の秘密を丁寧に実演してくれたようである。
坂井氏の半紙では、後にから発射された瞬間、機体を左に捩じって、そのとたん外れた銃弾が翼を掠めるというが、そのためには、敵にまっすぐ飛んでいると見えるように斜めに機体を滑らしながら逃げているようで、この秘技のおかげでとうとうグラマン15機に囲まれても逃げおおせたらしい。東大の研究室では、それをコピュータ上にモデル化するのに、優秀な院生でも一年半費やしたという。


私はゲームはやらないが、これを読んだとき、戦闘機のバトルゲームならやってみたいと思った。最近はあまりはやらないようだが。

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