土曜日, 6月 02, 2007



雑誌WILLの7月号で、鳥居民氏の書いた「近衛文麿「黙」して死す」の書評が載った。鳥居民氏は、木戸幸一を、ハルノート関連で、天皇に中国からの撤兵を奏上できる位置にいながら、あえてそれをしなかった人物として発表している。書評には、「近衛の死から20年、木戸は母校学習院で語った。近衛の自死について問われ、「一種のわがままじゃないか。死ねば済むというものではない。」歴史の真実はむしろ語られなかったこと、記録されなかったことにある。近衛が嘆じた「運命」=おぞましい陰謀劇の実相をよく透視・告発しえた告発の書である、と紹介されている。また、木戸孝一を、隠れ共産主義者と目する話題も最近どこかで読んだ。

だいたい、ハルノート自体、アメリカ中枢にいたソ連スパイが起草したというのは、産経では数年前から常識だし、日米を戦わせ疲弊したところで共産主義革命を画策することはコミンテルンの遠大な目標だったからだ。近衛とルーズベルトの頂上会談が実現しそうになるや、あわてて中国に打電、日本軍との戦闘を激化して会談延期を実現するよう蒋介石などの努力させたという記事も最近雑誌で読んだ。
その仲介には、反日的というより、モロ反日の日本のインテリが動いたようだ。

雑誌WILLなどや産経にもよく書かれる渡部昇一教授は、近衛公が、裁判出頭前に服毒自殺しないで、裁判で、公の周辺で戦争を煽った連中を名指しして挙げていれば、戦後これらの連中が頬被りして活躍することはなかったのに、と公の自死を悔やんでいる。

ところで、以下のサイトには次のような記述が、・・・。
http://www.h4.dion.ne.jp/~jijitorn/dekigoto.htm

『ゾルゲ事件 投稿者:円僧  投稿日: 7月 5日(土)00時49分50秒

先ほど、この掲示板へリヒャルト・ゾルゲのことを書いたが、今日の朝日新聞の夕刊にゾルゲの弁護を引き受けた弁護士浅沼澄次さんの獄中で接見したゾルゲの思いでを記した回想録が見つかったとの記事が3面に大きく掲載されていた、何か、因縁めいたものを感じました。「一法曹の見た人間リヒァルト・ゾルゲ」と題があり、「国際的事件の中心人物なので私の心はかなり緊張したが、如才のない、愛嬌たっぷりの態度に全く意外の感に打たれた」と第一印象を記している、と書かれている、「頬はやや肉が落ち、面長でしまった口と軟らかいまなざしには強い意思と怜悧さを湛えていた。一回として不愉快な顔を見せなかった」、他の被告のことを尋ねられることもあった、「元気か、会ったら本人によく伝えてくれなどと、いつも心を配っていた。真の大親分でなければ到底達し得ない心境だろう」と仲間を気遣うゾルゲの懐の深さに敬意を払っている・・・等記している。「つらかったのは、いつ死刑になるのかと手まねをしながら聞かれることだった。その態度は屈託がなく、一層私の心をかきみだした」と記している。-----魅力と同情、切々と (朝日新聞引用) ゾルゲ事件---


1941年10月、ドイツのフランクフルター・ツァイトゥング紙の在日特派員リヒャルト・ゾルゲと満鉄嘱託で中国問題評論家の尾崎秀実らが、日本の政治・軍事上の機密をソ連に通報したとして逮捕された。逮捕者は計35人に及び、43年9月、ゾルゲと尾崎は死刑判決を受け、翌年11月に執行された。』

例によって、朝日の記事だから、都合の悪いことは絶対に書かない。


また、WILLの7月号の別のページもゾルゲ関連で、朝日新聞批判をかねて、尾崎関連記事が出ている。朝日の都合の悪そうなことを突いている。今月号の「朝日新聞、連載4」だ。このひと月、朝日新聞は反日・反安倍勢力の機関紙としての色彩を一段と濃くした、ではじまる。

「たとえば、4月24日づけのそれぞれの8.15に登場した「ゾルゲ事件」で刑死した元朝日記者尾崎秀実の人物像。朝日の政経部長だった田中慎次郎から、日本の国歌戦略の最高機密を聞き出す。これをゾルゲに伝え、祖国を売った正真正銘のスパイだ。・・・その尾崎を89歳の朝日のOBが受けた印象として「紳士で陰のある人ではなかった。共産主義でも何主義でもない現実的な思考の持ち主だった」と書いた。執筆した記者は、勉強不足か不注意か、または故意の責めを避けられない、」と。

スクリーンショットで掲げた、ゾルゲ・尾崎で検索した結果、二番目に出た項目では、結論部には以下のように出ている。

『(e)売国奴の正義
 尾崎は、当時の近衛の嘱託という立場を利用して政策決定に影響を加えた。ゾルゲ・グループのもたらした情報はソビエトが対独戦を戦うえで不可欠であった。1941年10月、日米開戦の予告をモスクワに通信したのを最後にして、彼とそのグループは検挙され、彼らのほとんどが終戦をまたずに刑死・獄死した。ゾルゲには1964年「ソビエト連邦英雄」の称号が贈られた。

 ゾルゲや尾崎秀実や日本共産党の戦前の反日活動が、反戦平和活動だったなどと言う笑止千万なことをいう輩がいるようだが、彼らはソ連の野望のための下働きにすぎなかったのである。

 尾崎は「中央公論」昭和14年1月号に「『東亜共同体』の理念とその成立の客観的基礎」を発表した。そのなかで尾崎は、「東亜に終局的な平和を齎(もたら)すべき『東亜における新秩序』の人柱となることは、この人々の望むところであるに違ひないのである。」とのべている。

 尾崎の狙う「東亜共同体」とは、共産革命後に成立するソ連・日本・中国による「赤い東亜共同体」であった。尾崎には、革命後の「終局的な平和」のために、国民をだまして「人柱」にすることなど、なんともなかったのである。』

ここを読んで、読んだというボタンをクリックすると、筆者からの感謝の言葉と、さらに周りに広く紹介してくださいというメールが届く。



三田村は、旧内務官僚の出で1937年から戦後を通じて衆議院議員に5回当選した元東方会総裁で1950年に「戦争と共産主義」と題する書を書いたが、GHQから発禁処分された。それが1987年になって、「大東亜戦争とスターリンの謀略」となって復刻版として世に出た。

「三田村は、尾崎が死刑を前に共産主義から転向したとの解釈だが、書評を寄せた鈴木は、その中でかっての部下を次のように描いている。記者としての尾崎は「特ダネをとることも文章を書くことも全くだめで・・・彼が左翼ばりの中国に関する論文で売り出した時、・・・3年か4年上海にいたくらいで中国通となりすました彼の器用さには驚いた」とある。

1OBの印象を採用した姿勢には一向に改まらぬ意図的な「異論排除」が匂う」と書き、尾崎に機密を漏らした田中は起訴は免れ、退社処分だけにとどまり、戦後はいち早く復社、朝日ジャーナルを創刊して、監査役まで務めたという。

「国民に明かすべきは、朝日新聞と田中が「ゾルゲ事件」を生き延びた秘密ではないのか」と結んでいる。

ところで、尾崎・ゾルゲの死刑判決に至った最大の理由は、ロバート・ワイマントの著書では、前述の弁護人(ゾルゲの依頼により弁護)弁護士浅沼澄次さんが上告手続きを一日誤り!!!、上告無効としてしまったことだ。日本政府は、捕虜交換用に、ゾルゲをソ連に返そうと何度も無駄な努力を重ねた、という。その度に、そのような人物は、当方には心当たりがございませんという回答であった、という。

当時の起訴猶予の13日間を過ぎた翌日に提出したため、規定により無効となったという。

ゾルゲも、尋問中は自分は上司のおぼえのめでたい赤軍諜報部員と思い続けて、ソ連からの助命要請が来るのではと期待していた。自分をロシアに引き渡せば、そうとうの見返りが日本にもあるだろうと思っていたらしい。

「レオポルド・トレパーはゾルゲと顔なじみであり、彼をすぐれた勇気ある同僚と見做していたが、その彼にはゾルゲが(ソ連から)拒絶された理由がよくわかった。『連中は、終戦後に自分たちの責任を追及する爆弾となりかねないゾルゲを、生かしておくより、死刑にさせたほうが良いと考えたのだ』」。

「ゾルゲの運命に対するロシア側の冷淡さによって、日本側はこれ以上交渉しても無駄だし、彼の恩赦も不要だと悟った。11月4日、司法大臣は死刑執行の認可書に押印する。」

11月7日の10時20分、ゾルゲに死刑が執行された。彼は10時36分に死亡が確認された。彼は、忠実な協力者であった尾崎秀実が、同じ処刑台で9時51分に息を引き取ったことは知らなかった、と書かれている。翻訳はここで終わる。

なお、筆者は尾崎が転向していなかった事実を告げている。二度ほど転向したそぶりの上申書を書いたが、いずれも偽物と当局によって見抜かれ、会見の刑事にも、転向していないことを明らかにしている。死ぬなら、共産主義者として死にたいと。この辺は駆け引きで、恩赦でもあって、生きていれば、戦後どうのような真実を語ったことだろうか。

いずれにしても、尾崎の夢見た共産社会は、米軍による占領で潰える。戦後一時期、ピンカーと呼ばれる親ソ派がGHQにいたが、昭和22年末以降、急激に勢力を失い、皇居前での共産党パレードは禁止された。ルーズベルトが日本との停戦を急いだ背景には、中国との戦いが始まると読んだためとも言われる。その直後、愛人宅で死ぬわけだが。尾崎は、みずからの刑死で、その行く末すら目にすることは無かった、・・・。まあ、朝日が見つめてはいるが、・・・。

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