土曜日, 6月 30, 2007



秦郁彦教授の「現代史の争点」は1998年5月に発行となった。後述する渡部昇一教授の「日本人の気概」も、購入時期はともかくとして、発行はやはり1998年5月で、前者が5月20日、後者は5月21日である。これは内容を読み比べてみて、改めて気がついたことである。

いぜん、牧野富太郎博士が、図鑑を発行するとその発行日より一日早く、内容を真似た廉価版が良く出ていたということを、その方面の人の著作で見た。図版は、簡略化して、中味もあまり素人からみてはかわらないよう図鑑をだされては、真面目な研究者としてはたまらないことだったろう。そして出版社は当然違うが、発行日をほぼ同じくすることは、競争の観点からも興味深い。

前述の、両教授の昭和史、なかでも「南京事件」に関する記述を読み比べると、いろいろと申し合わせたかのような、それぞれの見解に対する激しい追求が展開されていて、発行までに両先生のそれぞれの立場が伺える。私は、この論争以降、秦教授は、南京事件の犠牲者数そのものについては、口をつぐんでおられるように見受けられるのだが、どうだろうか?。

秦教授は、自他ともに許す南京問題の専門家であろう。それで、著作の中では、自説に対する批判についても、そうとう厳しく対応されている。

「南京大虐殺「ラーベ効果」を測定する」という巻頭からの部分では、南京大虐殺60年の1997年、プリンストンで行われたシンポジウムをとりあげ、そこで、秦教授がラーベの日記をどう位置づけるかを発表したのである、ということから始まる。

ラーベの日記では、犠牲者数を「5万から6万」としており、複雑な波紋を引き起こしたとある。とくに当惑したのは、「大虐殺派」と「まぼろし派」だった。

大虐殺派の代弁者を買って出たのは、参謀長格の笠原十九司宇都宮大教授だが、次に見るようにコメントは揺れている。該当の箇所には傍線を引いておいた、などとある。

犠牲者数の表現が、十数万以上だったり、十万以上、二十万人い近いかあるいはそれ以上などとなっていて、無理すればあちこちにほころびが出てくるのは避けられぬ、などと書かれている。

参考までに私の計算を紹介すると、台湾公式戦史の守兵10万をベースに内訳を脱出0.6万、戦死5.4万、捕虜の生存者1万、捕虜の虐殺3万としている、とある。
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「マボロシ派の当惑」としては、田中正明、阿羅健一、渡部昇一、中村粲などの諸氏だが、ゼロとは言いはっているわけではなく、いくらと問い詰めても口をつぐむ。シンポジウムの傍聴席から何人くらいかと聞かれ、解らないと答えて切り抜けた、などとある。

渡部昇一氏は、1997年9月9日の東幼会総会(おそらく、東京幼年学校の総会)における講演で次のように述べている、として
「・・・先日、ある編集者がラーベ日記のレジュメを持って感想を聞きに来た。読んでいるひまがないので、二点だけ確かめた。「何人殺したと言っているか」と聞くと3万人くらい、すべて兵士だとのことだった。戦争で兵士を殺すのは虐殺といわぬ。

ラーべ日記の現物をみれば大虐殺はなかったことが証明できる、右翼的と言われる学者でもきわめて危険な人がいる。たとえば林健太郎先生・・・・」

新羅万象何でもナデ切りにする渡部氏のことだから、少々のことは私も驚かないが、この放言ぶりには恐れ入った。・・・それに対して、中村粲氏は、ラーベを読んで、少し良心的に「一刀両断を本領としてきた中村氏が、歴史に書き残すべきは優れて常識的な事実でなければならぬ」との心境に達したのは、ラーベ効果の一端なのではないか、と満足げに記し、御自分の推定数を少し引き上げ、11年前の自著を引き合いに、4万(民間人殺害を1万とした)と推定している、とここでも繰り返す。・・・



第3章 「実証的現代史家」秦郁彦氏との論争

とあり、専門家の仕事を見かねる素人の立場についてーーー秦郁彦氏に与う
から始まる。

「やりたくないことを、最もやりたくない時期にやることになったなァ」という重い気分でこの原稿を書くことになった、とあり、「従軍慰安婦は戦場売春婦というべきだが、テレビでは売春婦は不可だというが」とあるが、最近は買春という言葉はテレビでも聞かれる。

秦氏とはだいぶ前に故・大井篤氏と三人で鼎談をした以外にお会いした記憶がない。大井氏は中学の先輩の海軍軍人で、・・・この前の戦争は日蓮宗に凝り固まった連中が起こしたようなものと実名をあげて批判しておられたのが印象的だった」などとある。やはり、海軍が始めたのか!?

秦氏に好意こそ抱け、何の反感も抱く訳はなかったのだが、秦氏が何年か前に「ドイツ参謀本部」を剽窃の書として批判していることを耳にした。・・不快には思ったが、おそらく戦史の専門家が、「ドイツ参謀本部」の様な近・現代史の超重要テーマを、英語学者に書かれた不快感によるものではあるまいか、と・・・

「ところが、文芸春秋の「昭和史の謎を追う」を本屋でぱらぱらと見ていたらそこに私の盗用の話が出ている。しかもこの本は菊池寛賞をうけたものだという。これはきちんと反駁しておかねばなるまいと思って、筆をとったしだいである」と、期待を抱かせるに十分な書き出しではある。

ここでは、参謀本部の話は省く。


「素人の「観」をどう見るべきか」

・・・近くは平山郁夫東京芸大学長が、「南京城壁を日本軍が10キロも破壊したのを修復するのに協力しよう」という呼びかけをなさったときに、「それは真っ赤な嘘だ」とテレビ番組で批判した。田舎の家には雑誌「キング」が創刊号からほぼそろってあったから、南京陥落前後のグラビアも沢山見ている。当時の写真集もある。わずかに少し崩したところに竹梯などをかけよじのぼって突入したイメージが頭にある。あの厚さ何メートルもある城壁を砲弾不足に悩む日本軍が何キロも根元から崩すはずがない、というイメージがつまり漢字の「観」がある。・・・それは史観といってもよいが、その専門家である秦氏はどのような「観」をおもちなのか、「南京事件ーーー「虐殺」の構造」中公新書1986について見てみよう」からはじまる。

この本の中で曽根一夫氏の『私記南京虐殺」を秦氏は極めて高く評価し、いたるところで引用している。その賛辞の中には「類書にない特色を持つ」とか「曽根氏の明快な指摘に頼って」とかいう表現がちりばめられている。

ところがこの曽根と言う人物は南京に突入した部隊にはいなかった。戦地での自分の体験も少しはあったろうが、戦場での噂話や、戦後の東京裁判以降の話しなどをこきまぜて、何と三巻の本を作り上げた。このインチキ本を南京事件の専門家であるはずの秦氏が、最大級の賛辞を用いてほめ、利用して、秦氏の専門の業績になる本に用いているのだ。この曽根一夫の正体を暴いたのは、ほかに本業を持つ南京問題の研究家の板倉由明氏である。(私もその後、偶然に曽根一夫氏の近親者に会い話しを聞いたことがあるし、また意外な場所で曽根氏と一緒になったことがある)。

つまり、秦氏は自分の専門の中で第1級の資料として使ったものがインチキであることを見抜けなかったのだ。これを専門家失格という。もし、これが学位請求論文にあったなら、学位褫奪(ちだつ)は確実である。・・・ところが、秦氏は全く反省ぜず、近著「昭和史の謎をおう」では逆に板倉氏を批判しているのだから恐れ入る。「曽根一夫という人物は南京突入部隊の中にはいなかった」という板倉氏の指摘が間違っているという証明でもあれば感心するが、そうではなく、盗人猛々しい言い草で板倉氏を揶揄しているのだ。学者の無恥厚顔もここまでくれば手のつけようが無い。南京虐殺という表題をつけた本の著者が、南京に突入しておらず、それを南京事件と言う表題の本を書いた専門学者が大いに利用したのだ。どこに弁解の余地があるというのだろうか。秦氏は南京問題については筆を折るのが当然なのである。

・・・板倉氏と私は本業は違うが、「見るに見かねた」という点で板倉氏に深い共感を持つ。秦氏も専門家ならば、御自身が虐殺されたと主張される4万人のうち、何人が兵士、何人が投降兵(これは正規の捕虜とはちがう)、何人がゲリラまたは便衣兵とまちがわれた市民、何人が市民として虐殺された一般市民かを区別する努力をしていただきたい。概数でも結構である。その努力こそが専門家に期待したいところだ。

虐殺が問題なのは、市民を市民として虐殺する意図をもってなされた虐殺の場合である。通州事件やナチスのホロコースト、それにアメリカの無差別絨毯爆撃や原爆は、市民を市民として虐殺する意図を以てなされた市民虐殺だから、本物の大虐殺なのである。

http://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=通州事件&btnG=Google+検索&lr=

「専門家の「資格」を考える」

秦氏の拙著あるいは小生に対する批判の仕方から、私の立場、及び実証的現代史家と称する秦氏の史家としての資質、あるいは資格まで問題にしてみた。ただ私一人ではあまりにも個人的なと思われる読者も多いと思われるので、秦氏の資格、または個人としての人格を疑っているもう一人の方の書いたものを紹介しておきたい、と念が入っています。

1989年11月号及び1990年2月号において雑誌「諸君」で秦氏と中村粲氏との論争が行われた、そうだ。

問題は日清戦争時、乃木希典将軍の率いる旅団が旅順市民を虐殺したか否かであり、あちらの研究者の話を聞いた秦氏は、「虐殺の証拠がゾロゾロ出てきた」という。それで、「仁愛の将としての乃木は一変する」と書いたのだそうだ。

中村氏はこれに反論して、その時、乃木軍は旅順に入っていなかったことを実証して見せ、かつ虐殺の資料と言うのも、秦氏の資料の読み違い、あるいは読み飛ばしによるものであることを実証した、とある。

普通に日本語が読める人ならば、論争は中村氏の100%勝ちであることは明々白々であり、秦氏の実証史家としての資格に重大な疑念が生ずるものである、と。

その後でも、秦氏は反論し、人格を疑わしめるに十分であるとして、両者のその後のやりとりを紹介している。

1989年11月号 秦氏の中村氏への攻撃
1990年2月号 中村氏の秦氏への反論
1990年3・4月号 中村・秦氏の対談

この対談を原稿にするについての秦氏のやり口については、「自由」平成二年5月号に中村氏の詳しい記述がある。中村氏も余程腹に据えかねたようである。・・・

論争になった乃木旅団の虐殺行為などというのはも、当時の乃木という人物についての秦氏の「観」あるいは「像」が「市民を虐殺させる将軍」ということになっていたことを示す。専門家のくせに文献の扱いが不十分で粗末なのはそれと関係あるだろう、としている。

同じ文献を読んでいて、ある人には大仮説が建てられ、ある人は、事実関係の把握すらまともではない、などというのはいくらでもあることであり、岡潔博士は、大学教授なんていうのは、オウムの真似ができればだいたい勤まります、などとおっしゃっておられた。一人まともで優れた人がいれば後はオウムのごとくで
十分もつ。時代がそうだったから、迎合したという事例はかなり頻繁に起きているのかもしれない。

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